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あゆみ

旧三井物産の創立と初代社長・益田孝

27歳の青年社長と16人の精鋭

旧三井物産初代社長 益田孝旧三井物産初代社長 益田孝

益田孝は幕府陸軍の騎兵頭並(騎兵中佐)で1868年の明治維新を迎えた。英語力には自信があった。日本語の英語式転写法(ローマ字)を開発したジェームス・カーティス・ヘボンによるヘボン塾で英語を学んだ後、米国公使館勤務や欧米使節団随行で英語力に磨きを掛け、幕府外国方通弁御用に採用された。幕府陸軍勤務を経て、明治維新後は外国商館向け貿易会社を設立したり、請われて外国商館にも勤めるなど、貿易実務の経験も積んだ。

そんな益田に注目したのが、時の実力者・井上馨である。彼は自らが創業した貿易会社・先収会社の副社長として益田を迎え入れた。しかし、1876年の井上の入閣により、先収会社は解散。同社事業に興味をもっていた三井組の大番頭・三野村利左衛門と井上、益田の三者会談の末、旧三井物産<注>の創立が決定した。

1876年、創立時の旧三井物産社屋1876年、創立時の旧三井物産社屋

1876年7月1日に誕生した旧三井物産は職員16名、指揮を執るのは27歳の青年社長・益田孝だ。今でいうベンチャー企業である。新会社はその定款で、「貿易」を本務とした。益田は「三井物産会社を創立したのは、大いに貿易をやろうというのが眼目であった。金が欲しいのではない、仕事がしたいと思ったのだ」と振り返っている。また志として「眼前の利に迷い、永遠の利を忘れるごときことなく、遠大な希望を抱かれること望む」と述べている。

旧三井物産は、同年11月に三井組国産方(三井組の貿易部門)を併合し、職員70名余りに拡大。1880年までに、国内支店のみならず、上海、パリ、香港、ニューヨーク、ロンドンなど海外にも支店を開設し、事業を拡大していった。一方、益田は、1909年に三井傘下事業を統轄する三井合名会社の設立に携わるなど、多数の会社の設立に貢献、公共事業や商業教育にも力を注いだ。また、私財を投じて、情報重視と商業知識の普及を目的に『中外物価新報』(『日本経済新聞』の前身)という新聞を創刊している。

1914年に第一線から引退し、1918年に男爵を授けられた。鈍翁の号を持ち、「千利休以来の大茶人」と称されるなど、茶人・美術収集家としても名高い。

(注) 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く別個の企業体である。