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あゆみ

「人の三井」を支えた企業家たち(2)石田禮助

三井家の家祖である三井高利が開いた越後屋に始まる事業は、優秀な人材の登用と育成により拡大。特に明治維新後、三井が財閥として近代的な会社組織に移行していく中で、多くの名企業家を輩出してきた。その中から今回は、石田禮助を紹介する。

粗にして野だが卑ではない

石田禮助石田禮助
ぴんと背筋を伸ばし、蝶ネクタイをきりりと締め、古武士のような風格を漂わせた石田禮助

旧三井物産(注)出身で、世に知られ、親しまれていたのは石田禮助といえる。彼は旧三井物産での34年間の勤務のうち、実に27年間を海外店で過ごした現場一筋の人だった。1907年、現在の一橋大学を卒業、旧三井物産に入社した。その後、大連、シアトル、ボンベイ(現ムンバイ)などの各店を経て、1930年にニューヨーク支店長に就任。そこで、彼が名を上げたのがスズ取引だった。少額取引からだんだん拡大し、やがて英国の世界最大のスズ製造会社の販売会社から総代理店を依頼されるまでになる。

その総代理店の威力で、米国のスズ輸入額の4分の1ほどを旧三井物産が扱うようになり、USスチール社、ベスレヘム・スチール社、ゼネラル・モータース社、フォード社、アメリカン・キャン社などの米国の有名大企業が旧三井物産の顧客となった。

石田禮助は1936年に常務取締役、39年に代表取締役に就任する。彼は日米関係の危機が深まった1941年秋、親しい有力財界人と協力して、日米開戦を避けるように政府に進言しようとしたが、叶わず、日米開戦の直後に旧三井物産を去った。

気分はヤング・ソルジャー

石田禮助が再び表舞台に登場するのが1963年。77歳で第5代日本国有鉄道(国鉄、現在のJR)総裁に就任した。経営が悪化していた国鉄に対して、「財界人から総裁を」という池田勇人首相のたっての希望で、国鉄監査委員長も経験した石田禮助に白羽の矢が立った。新総裁の年齢を気にする記者に石田は「気分はヤング・ソルジャー」と言ってのけた。また、初めて国会に出席し、自己紹介した際、「粗にして野だが卑ではないつもり」と述べた。この言葉は作家の城山三郎による石田禮助伝の題名『粗にして野だが卑ではない』にもなっている。
国鉄総裁として6年間に及んだ在任中、政府の国鉄への財政助成の増額や、連絡船の更新などを進めた。

(注) 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く別個の企業体である。