心の中に残り続けた里山の原風景

足元の生き物さえいたわるように、一歩一歩踏みしめながらゆっくりと水中を歩む飯島さん。 ©Natsuki Yasuda

飯島 博 特定非営利活動法人 アサザ基金 代表理事

1956年長野県生まれ。95年から湖と森と人を結ぶ霞ヶ浦再生事業「アサザプロジェクト」を開始。湖岸植生帯の復元や外来魚駆除事業、谷津田の保全事業などを、地域や企業、行政、農林水産業を結ぶネットワークで展開している。

 一瞬大海原と見間違えてしまうほど、穏やかな水面が彼方まで広がり、清々しい風が吹き抜けていく。茨城県南東部から千葉県北東部にまたがる日本有数の湖、霞ケ浦。胸下まですっぽりと胴長で覆い、水中をゆっくりと歩いてみると、夏の暑さが残る中とはいえ、ひんやりとした感触が足先にも伝わってくる。「この辺は遠浅になっていて歩きやすいんですよ」と慣れた足取りで水をかきわけていくのは、NPO法人アサザ基金の代表を務める飯島博さん。実に20年にわたり、この霞ヶ浦をはじめ、拠点を置く茨城県牛久市周辺の豊かな自然と共に生きる道を見出してきた。波で削られ続けている湖岸に厳しい目線を向けながらも、水底を網ですくいとり、エビや小さな小魚を見つけると、飯島さんの顔が少しほころぶ。

拾い集めた水草や網にかかってきた生き物の様子など、たゆまぬ観察の積み重ねが活動を支える。

©Natsuki Yasuda

 長野県塩尻市で生まれた飯島さんは、その後家族で千葉県市川市に住まいを移した。「当時の市川にはまだ、森林と共に生活を営む人々の姿がありました。人と自然は同じ空間を分かち合いながら生きられる。そんな里山の原風景が心の中に残ったのです」。魚や昆虫、植物について、このとき自然と身に付いた知識が今でも糧になっているという。

 そんな飯島さんが次に移り住んだのは、緑豊かな野山から一転、東京都渋谷区。車や人々の喧騒に囲まれながら、中高時代を過ごすことになる。当時はちょうど、4大公害病の裁判真っただ中でもあった。自然と共に暮らしてきた人たちが、真っ先に発展のゆがみに巻き込まれていくことに、違和感がぬぐえなかった。

 高校卒業後、つくば市にある農水省の農業環境技術研究所に非常勤の職を得ると、牛久に移住。そこは幼少期を過ごした市川のような、美しい里山の風景が残されている場所だった。この風景を生かしながら、未来を築くことはできないだろうか。自然観察会など、小さな活動の積み重ねが始まった。

©Natsuki Yasuda

すくい取ったアサザの葉。その育成への道を、根気強く探り続ける。

アサザがくれた、力づくではない優しい発想

 やがて、ほかの自然保護団体や研究者との縁も広がり、その中で霞ケ浦の自然を守る活動にも声が掛かる。霞ヶ浦は1970年代からの開発に伴い、湖岸はコンクリートに被われ、湖と海の間に建設された逆水門(常陸川水門)によって海から湖への水の動きが遮断されてしまった。ヤマトシジミやシラスウナギなど、数多くの生き物たちがこの時姿を消していった。それに輪をかけるようにして生活排水による汚染、アオコの大量発生と、このとき霞ヶ浦には環境問題が山積み状態だった。

 こんな広大な湖を前に、一体何ができるだろう。そう考えていたある日、歩いて湖の周辺を調査していた時のことだった。波で削られていくヨシ原を調べようと湖岸に目をやると、コンクリート岸では白波が立つほどの水のうねりが、水面に浮かぶ植物の中でさっと止まるのが見えたのだ。アサザと呼ばれるこの浮葉性の植物は、春先に岸辺で発芽し、水位が上がる6月ころになると湖に入り繁殖、9月には黄色い花が顔を覗かせる。けれどもその風景は年々減りつつあった。「このアサザの存在が、発想を促してくれたんです。力づくではない方法で、この湖を変えることはきっとできる、と」。

 このアサザを守ることから始めよう。飯島さんはまず、市民に種を渡して発芽まで栽培してもらい、ある程度大きくなったものを霞ケ浦に植え替えるという「アサザ里親制度」を提案した。反響は大きく、子どもたちの声を受けた学校、企業、そして行政へと、その活動は枠組みを超えて広がりを見せる。「市民による公共事業」が徐々に形作られていった。

子どもたちと築いてきた大切な里山。木々を見つめる飯島さんの目が、一際優しくなる。

©Natsuki Yasuda

 やがてアサザ基金の活動は枝葉を広げ、湖だけではなく、水源地である谷津田や森林の保全にも力を注ぐようになった。これまでプロジェクトに参加をした人数は25万人を超える。さらには外来魚の魚粉を肥料にした野菜作りなど、業種の枠を超えてのビジネスモデルも築かれつつある。「大切なのは自然を“管理”することではなく、働き掛けなんです。何をどう分かち合っていけるのか、常に自然とコミュニケーションをとることなんです」。

 そんな飯島さんがとりわけ大切にしているのは、子どもたちとの時間だ。学校やその近隣に集まる生き物たちの観察、学校内のビオトープ作りなど、触れ合いにあふれた飯島さんの授業は、地元ではもちろん、全国各地の子どもたちに届きつつある。「谷の地形を読み取ったり、風の流れを生き物の目線で捉えてみたり、自分たちの学区内にまだ虫や小さな生き物たちが生きられる世界があることを見つけていくんです。人間の築いた境界線を超えた連続した空間が見えてくる。大切なのは、空間を読み直すことなんです」。○か×かの世界で区切られることのない、「どうして?」「なぜ?」の問いの連鎖の中で、子どもたちの感性は次々に開花していくという。

新しい発想は出会いの中で見つかっていく

 そんな子どもたちの力は、必ず大人たちへと波及していく。地元小学校では自ら資料を集め調査をした結果を基に、牛久市へ街づくりの提言を子どもたち自身が行っている。中学校では谷津田で作られた米を使ったせんべい作りが始まった。無農薬への想いがある農家や障がい者の作業所に彼らから働き掛け、商品作りのための連携を呼び掛けていく。商品を売る段階で関わった人の想いをどう伝えていくか、何度もプレゼンを重ねていく。こうして自然との共生を目指し地域を巻き込んでいく、そういった活動が、未来の街を作り出す原動力となっていくのだ。

 そんな飯島さんが描く将来像は、地域の枠を超えた哲学にある。「イノベーションって、既存の選択肢の中ではなくて、想定外の出会いの中、つまり人同士や自然との間に出来るものだと思うんです。こうして凝り固まることなく世界を読み替え続ける姿勢を広げていきたいと思っているんです」。触れ合い、感じ合い、壁を溶かしていく。そんな飯島さんの生き方との出会いが、“命”を感じる瞬間を増やしてくれるようだった。

霞ヶ浦でご一緒させていただいた。慣れない水中で追いついていくのは至難の業だ。

【助成案件名】アサザプロジェクト―環境を機に活性化する地域社会
【助成期間】2009年10月〜2012年9月(3年間)

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