変わりゆく海を見つめながら、共に生き抜く術を探った

畠山さんは牡蠣だけではなく、この地のホタテの養殖業の先駆者でもある。 ©Natsuki Yasuda

畠山 重篤 特定非営利活動法人 森は海の恋人 理事長

1943年宮城県生まれ。気仙沼で牡蠣の養殖を営みつつ、気仙沼湾に注ぎ込む大川上流域への植林活動を20年以上に渡って続け、海・川・森を関連させて保全する重要性を訴え続けてきた。東日本大震災後は森林と牡蠣養殖の再生に取り組んでいる。

 吸い込まれそうなほどに優しい緑の山道を抜けていくと、やがて真っ青な海が山影から顔をのぞかせる。波は穏やかに岸辺を洗い、ウミネコたちがはしゃぐように水浴びを楽しんでいる。水面が陽の光と共に、きらりきらりとまぶしいほど輝き、静かな波音と、潮の香りを乗せたそよ風が心地よい。

 宮城県気仙沼市、唐桑半島の先端に位置する舞根(もうね)湾を望む木々の間に、畠山重篤さんの書斎がある。父の牡蠣(かき)養殖業を二代目として継ぎ、実に半世紀近くを海と共に生きてきた。「“凪(なぎ)る”という言葉があるでしょう。海の様相のことですが、人の営みに生きる大切な言葉でもあるんです」。生活の落ち着き、そして人の心の安らぎ、この“凪”という言葉がまさに、これまで畠山さんが歩み、目指してきたものではないだろうか。

ロープを手繰り寄せるその手に、育った牡蠣の重みがずっしりと伝わる。

©Natsuki Yasuda

 幼いころからこの地の人々の暮らしと自然の営みは一体だった。朝、家の下の岸辺で魚を釣り上げ、焼き魚にして食べてから学校へ。当時はウナギや貝類、海苔もとれる自慢の海だった。

 そんな豊かな海に徐々に陰りが見え始めたのが、畠山さんが跡を継いで間もなく、1960年代半ばだった。「牡蠣が赤くて売り物にならない」と市場から連絡が入る。一日にドラム缶1~2本分(200~400ℓ)の海水を吸う牡蠣は、海水の汚れにはとりわけ敏感な生き物だ。牡蠣の赤味は、汚れた海で発生した赤潮だった。こうして生活が追い込まれ、次々に仲間たちが陸に上がっていくのを目の当たりにした。

 舞根は入り組んだ湾の奥に位置し、外海の白波もすっと穏やかになっていく、養殖には申し分ない場所だ。ちょうど海と川の水が出会う場所でもあり、森林から流れてくる栄養をたっぷり含んだ水が、ふっくらとした牡蠣を育てていく。けれども湾に流れ込む大川の流域は近年、何百年と続いてきた広葉樹林が人工樹林へと変貌し、生活排水や化学肥料が流れ込み始めていた。美しい海を守りたければ、山を豊かにしなければ。「森は海の恋人」という運動の始まりだった。

©Natsuki Yasuda

この年も大ぶりで身の厚い牡蠣が順調に育っていた。

未来を担う子どもたちと、触れ、感じる時間を築くこと

 1989年、大川の上流にあたる室根山で、植樹祭が幕を開けた。室根山は県境を越えた岩手県一関市だ。「もともと、室根山と舞根は長い歴史で結ばれています。1300年近く続いている“室根神社大祭”は、舞根の漁民が室根山の見える場所から海水をくみ、御神体を清めることから始まるんです」。山の位置によって海の上での自身の場所を把握する知恵の一つが“山測り”だ。それに欠かせない室根山は、海の民にとっても霊峰なのだ。初めての植樹から25年、これまで植えられてきた樹は2万本を超える。

 活動は山の木々を豊かにすることにとどまらない。畠山さんがさらに力を注いでいるのが、この川の流域に住む子どもたちを招いての学習会だ。「筏(いかだ)から牡蠣の様子を見せると、子どもたちから必ず出てくるのが“牡蠣の餌はなんですか”という質問なんです。そこで“どういうものを味わっていると思う?”って、プランクトン入りの海水を一口飲んでもらうんです。陸に戻って顕微鏡でそのプランクトンを見てみると、“こんなの飲んでたんだ!”ともう大騒ぎ」。こうして触れ、感じるところから想像が膨らんでいく。なぜ海にプランクトンが湧くのか、食物連鎖とは何なのか。そして、そのプランクトンが食べているものを、自分たちが川に流しているのだと気付き、はっとする。巡り巡って自分たちも、それを口にすることになるのだと。「学習会に参加した子どもたちが家に帰ると、“お父さん、農薬減らそうよ”“お母さん、川に優しい洗剤使おうよ”と家族に話すんです。子どもたちから言われれば、大人も変わらざるを得ない。大人が変われば、やがて街ぐるみで環境保全型の暮らしへと変わっていってくれる」。山での植樹だけではなく、川の流域の人々の意識が変わらなければ自然は変わらない。子どもたちとの時間はこの活動にとって不可欠な存在なのだ。

 運動も各地に広がりを見せ、これで子どもたち、孫たちに漁業を任せられる。ほっと一息つこうとした矢先に起きたのが、あの東日本大震災だった。遡上高25m近くの波に襲われた舞根では、52軒中44軒が被災。牡蠣筏、船、作業場、あらゆるものが黒い波に飲まれ、生き物たちは姿を消した。「さすがにこれまでかと思いました。海は死んでしまった。もう養殖は続けられない、と」。

書斎のベランダから。風が吹き抜ける清々しいこの場所で湾を望みながら執筆に励むのだそうだ。

©Natsuki Yasuda

自然と共にたどり着いた、“豊かさ”の輪を広げるために

 ところが東日本大震災から4カ月ほどたったころ、小魚たちが集まり始めたのを皮切りに、貝や海藻が現れ、湾内はあっという間にその彩りを取り戻していった。「あの黒い波は実はへどろではなく、陸から流れ堆積した土だった。津波によって養分が巻き上がったんです」。山と川と、この海を支える礎が生きている。穏やかな舞根湾は、復旧作業も進めやすい。人の生活と自然の再生は同時にできると確信した。あれほど村を破壊し、人の命まで奪っていった海。それでも、その海の力と共にもう一度立ち上がろう。家や家族を亡くした人々と手を携えながら、共同作業が始まった。大粒で濃厚な舞根の牡蠣は、みるみる復活を遂げていった。

 日本の漁業の担い手は減ってきていると言われている。体力を要する仕事であるにもかかわらず、収入につながらないと、若者たちが敬遠する傾向にあるからだ。だからこそ、食べていける背中を、孫子の代に見せたいのだと畠山さんは語る。豊かな自然を守っていけば、品質の高いものが生まれ、結果的に人の生活も成り立つ、と。

 そんな畠山さんの“豊かさ”の描き方は、とてもシンプルなものだ。「海のものがおいしいと、皆一緒にお米だって食べたくなる。こうしておいしい物が出回り、幸せを噛みしめる瞬間を増やすことが、社会の活気の源になる」。自然の循環の中に身を置くその生き方は、地域の垣根を超え、日本中へ、そして世界へ。畠山さんの挑戦は続いていく。

船上での牡蠣談義。経験の蓄積から紡ぎ出される言葉の重みを噛みしめる。

【助成案件名】舞根湾のがれき清掃活動ならびに生物環境モニタリング
【助成期間】2011年4月〜2014年9月(3年6カ月)

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