「VOOX」編集長 岩佐氏と考える 。「自らの頭で考える」ことの本当の意味
2024.03.28
私たちを取り巻く環境は複雑さを増し、先行きの不透明なVUCA時代が到来しています。また、人工知能(AI)などのテクノロジーが発達する中で、私たちは一層、情報をうのみにしない判断力や、自分自身の感覚・視点を裏打ちする根源的な「問い」を立てる思考力を鍛える必要に迫られています。
今回は、「DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー」の編集長などを歴任し、現在、音声メディア「VOOX」の編集を務める岩佐文夫氏をお迎えし、ご経験から紐解くコンテンツ制作の考え方、そして自らの頭で考える力を鍛える重要性について教えていただきました。
岩佐 文夫 氏
プロデューサー、編集者
音声メディア「VOOX」編集長
財団法人日本生産性本部を経て、2000年にダイヤモンド社入社。書籍編集、雑誌「ハーバード・ビジネス・レビュー」編集長など歴任後、2017年に独立。プロデューサー、編集者として、コンテンツやメディア開発に携わる。主な書籍に『岡田メソッド』(岡田武史著、英治出版)、『シン・ニホン』(安宅和人著、NewsPicks)、『妄想する頭、思考する手』(暦本純一著、祥伝社)『熟達論』(為末大著、新潮社)などがある。現在は学びの音声メディア「VOOX」の編集長も務める。
自分の「月並み」さが、人に刺さるものを生むと信じて
岩佐さんがプロデューサー・編集者としてコンテンツ開発に携わられる中で感じている変化について教えてください。
僕は、編集の仕事にかれこれ30年ほど携わってきましたが、クリエイティブを手掛ける上で、「今はこういう時代だから」ということはあまり考えていません。ただ、確実に変化はしていて、それが、時代によるものなのか自分自身によるものなのか、はたまた他に要因があるのか、実はわからない部分もあります。
その前提で、どのように変化しているかですが、いわずもがな、インターネットの台頭は大きく影響しています。さらに、スマホの普及とSNSの拡大によって、社会における情報量が圧倒的に増えていく中で、発信したコンテンツをいかに見つけてもらうかということが重要になりました。ただ、目立つことだけを考えるといわゆる価格競争のような不毛は争いになってしまうので、コンテンツの作り手の立場としては、本質のところで勝負したいと思っています。
コンテンツなどの企画を検討する際に意識しているのはどのような点でしょうか?
僕が信じていることは、自分が良いと思ったことを真っ直ぐ発信すれば、それに共感したり、面白いと思ってくれる人が世の中に100万人くらいはいるだろうということです。どうしてそのような自信が持てるのか?と思いますよね。僕自身、自分がエキセントリックな人間ではないからです。どんな曲が好きですか?と尋ねられれば、多くの人が好きな「ローリング・ストーンズ」や「ボブ・ディラン」です。とっても普通ですよね?そして、僕は単純ですぐに影響を受けてしまう人間で、そういう頭で日々物事を考えています。なので、私が「面白い!」と思ったことは、無意識に今の社会や環境の影響を多分に受けていて、凡庸な私が面白いと感じたことは、同じ空気を吸い、同じ社会システムで生活している人の中に何人かは同じように思う人がきっといるはずと思えるのです。
ただ、その際に、気をつけなければいけないのが「わがままと思いやり」です。これは、企画を立てる時によく際に用いられる言葉です。自分が面白いと思ったことを妥協せず、とことんこだわって「わがまま」に主張すべきで、その上で、自分が面白いと思ったものをそのまま出すのではなく、どのように表現すれば受け取られやすいか、それを考える「思いやり」が不可欠です。面白いと感じたことと社会との接点を考えて、そこを切り口にすると同じような接点を持つ人に受け取ってもらいやすくなるのではないか、というふうに伝える工夫をしています。
岩佐さんのようなご経歴を持つ方は、突出した感性を持っているように思っていましたが、凡庸への自信というのはどのように確信されたのでしょうか?
次第に自信が強まった感覚はあります。かつては尖った個性を持つ人たちを前に、自分はどうすれば勝てるのだろう?と頭を悩ませていた時期もありました。ひとたび書店に行けば、膨大かつ多様なコンテンツがあふれる中で、まだ、ここにない価値を持つものなど作れるのだろうか?と考えていました。そうした中で、自分ができることを考えていくうちに、自分の「強み」や「らしさ」は、他人が決めるものであって、自分が考える必要はないと思うようになりました。素直に自分が何を面白いと思うか、それだけを考える、その姿勢を貫いてさえいれば、自分のコンテンツが届くべき人に届くだろうと考えるようになりました。
そのコンテンツは人を動かす力を持っているか?
企画を立てたり、情報を言語化・アウトプットしたりする際に、意識されていることはありますか?
僕は現在、音声メディア「VOOX」の編集長を務めてますが、まず、自分たち自身が心から聞きたいと思えるコンテンツになっているか?ということを、いつもメンバーたちと議論しています。自分たちの価値観をさらけ出さないまま、「きっと世の中は、こういうものを欲しているはずだ」という思い込みだけで進めてしまうと、地に足がついてない企画になってしまいます。
そういう意味では、自分の言葉でコンテンツの魅力を語れるかということが非常に重要です。そして、それぞれの人が「いいな」と思うものが多様にあふれた世界は、とても魅力的だと思います。
さまざまなコンテンツがあふれる中で、良質なコンテンツは、どのように見極めることができるのでしょうか?
コンテンツの評価は、受け手がきめるものだと思うので、そのコンテンツを「良い」と思う人が多ければ、結果的に良いコンテンツといえるだろうと思います。古典は、まさにその典型ですよね。多くの人が良いと思い、今でも読み継がれている価値ある読み物であることが示されています。
その上で、作り手側から見た良いコンテンツか否かの判断ポイントは、人を気持ちや行動を変えられる力を持っているかどうかだと、考えています。僕自身そうですが、自分の価値観や判断基準は、これまでに吸収してきたコンテンツが大きく影響しているように思います。
感覚と接地した情報を、いかに豊かにしていけるか?
現代の人々が世の中の情報に触れたり、物事を洞察したりする姿勢をどのように捉えていますか?
先ほどから何気なく話している「情報」ですが、これには一次情報と二次情報の2種類があります。一次情報は自分で見たり聞いたり、直接的な体験から得られたものです。一方、二次情報は誰かが集めた情報で、誰もが入手できる情報です。例えば、4マスといわれる新聞・テレビ・雑誌・ラジオから得たものは全て二次情報です。インターネットやSNSの台頭によって爆発的に増えた情報も、全て後者ですから、ここ数十年の間に圧倒的に二次情報が増えているのです。99%が二次情報だと言っても、過言ではないかもしれません。そうした中で、僕たちは二次情報をどのように吸収するべきかを考える必要があります。
「記号接地問題」という言葉をご存知でしょうか?人工知能(AI)のあり方を語る際に、使われる言葉です。生成AIは私たちと会話ができるぐらい巧みに言語を操ります。私たちが言葉を覚える際、例えば「悲しい」という言葉は、悲しい経験を、身をもって体験し、「悲しい」という言葉と一致させて認識・学習することで、その概念を習得してきました。つまり、言葉は常に自分の経験や感情と接地しているのです。
一方で生成AIの使う言葉は、果たして「接地」しているのか?接地しないまま私たちとどこまで会話ができるのか?ということが議論されています。これを聞いたときに、AIに限らず、自身が話す言葉を自らの感覚に接地できていない人が、実は現代には多いのではないだろうかという気がしました。ネットなどで多くの二次情報に接する際、それが自分のどこと接地しているかを考えないと、得体のしれない言葉に操られてしまうと思うのです。
情報を鵜呑みにするのではなく、自身の経験に基づいてどう腹落ちさせていくかが重要となるのですね。自分の中で接地させていくために、どのような意識が必要でしょうか?
自分で体験していない物事を、あたかも知っている気になってしまうことは危険ですが、自分の経験以外のインプットを閉ざしてしまったら、知識の幅は広がりませんし、世界はとても狭くなってしまいます。その意味で、二次情報を受け取る際に必要なのは、想像力だと思います。自分の持つ一次情報と他者の体験の接地点をいかに見つけるか、です。自分の血肉にするための変換をしていくことで、自分の思考の枠を広げていくことができます。
僕が人と話す際に、無意識のうちによくやっているのは、「つまり、こういうことですか?」と自分の言葉に言い替えてみることです。相手が話したことを聞いて、自分が理解したと思ったことを自分の言葉で表現して相手に確認してみると、微細なニュアンスの差があったり、相手の言わんとすることと違っていたりすることがあります。「自分の頭で考える」ということは、すなわち「言葉を探す」ことともいえます。インプットで終わらせず、自分の言葉でアウトプットして、自分の中の言葉と一致させるところまでが情報を受け取る際にとるべきプロセスだと考えています。
決められた「正解」は存在しないからこそ
岩佐さんがコンテンツ制作の際に、軸とされている考え方はありますか?
軸というものは特に定めていません。良い意味で、柔軟といえると思います。ただ、コンテンツは、大きく2種類の受けとり方があると思っていて、一つは「そうそう」と共感を得るもの、もう一つは「え、そうなの?」と心をざわつかせる意外性です。僕はどちらかというと後者を狙っています。
心をざわつかせるといっても、扇動や単なるお騒がせではなく、多くの人がある一面を見ているなら、「見過ごされている逆の面があるのではないか?」と、それを提示することで、「今まで信じていたことは、実は少し違ったのではないか?」というような刺激を与えられたらと考えています。ちょっと天邪鬼かもしれませんが、真面目な顔で冗談を言う人とか好きで、共感や賛同を得るより、「あれ?」と思わせたいのかもしれません。
当然、「想定内」では驚きはありません。しかし、想定の外に行きすぎても「期待外れ」になってしまいます。想定内と想定外の境界線を狙っています。そのため、そのバランスを見極めることが重要です。それがうまくいって初めて、人々が持っている既存の思考フレームを拡張させることができるのではないかと考えています。
自分の頭で考え、答えを模索する力は、ウェルネスのヒントにもなるのではないかと考えています。岩佐さんが考えるウェルネス社会について教えてください。
「ウェルネス」という言葉はこれまで僕の中に接地していなかったのですが、「よりよく生きようとする姿勢」という一般的な定義を踏まえて自分なりに考えてみると、精神的にヘルシーに生きることではないかと思いました。
例えば、「ジレンマを減らすこと」です。やりたいことがあるのにできないだとか、自分は良いと思えないけれど会社の利益のためにやっているとか、将来のために今を犠牲にするだとか、それらは全てジレンマだと思っていて、今を楽しめずにより良い将来のことなど考えられないと思うのです。
何がいいかはやってみないとわからないので、自分が興味がありそうと思ったら、まずはどんどんやってみるべきだと思います。僕は何かを始める際は100日試して、続けるべきか否かを判断しています。そうやって、面白かったら続くし、そうでなかったらやめたらいいのです。そうして自分の中のジレンマを減らしていくことができれば、自然体で嘘のないヘルシーな生き方につながっていくのではないかと思います。今を最高に楽しもうと試行錯誤する人は、明るい未来が切り拓ける、そう思いませんか?
最後に、読者であるビジネスパーソンに向けてメッセージをお願いします。
私は、計画性やビジョンを持たない人間ですが、良い言い方をすれば、自分の未来に対する楽観性には自信があると言えます。今やっていることの多くは、1年前には想像もしていなかったですし、これまでも将来の計画は全く練らずに今に至りますが、振り返ってみると「面白かったなあ」と純粋に思えます。
未来のことは誰にもわかりません。同様に、自分自身がどうあるべきかも誰にもわかりませんから、自分の頭で考えて、試行錯誤していくしかありません。その試行錯誤を新しい自分の発見として捉え、楽しむことです。その中で、私たちが社会において、どのように価値を生み出せるかを考えた時に、まず自分自身を満たせなければ、他者に良い影響を与えたり、社会に新たな価値を生み出すことはできないと思うのです。他者との比較からではなく、自分自身を満たした上で、あふれた豊かさを社会に還元していく――そうした人が増えていくことで、ヘルシーな社会がつくられていくのではないかと考えています。