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株式会社三井物産戦略研究所

先制医療-糖尿病のケース-

2017年9月7日


三井物産戦略研究所
新産業・技術室
加藤貴子、木下美香


Main Contents

先制医療とは

糖尿病や認知症分野で、新たな予防戦略として「先制医療」に注目が集まっている。先制医療とは、病気や合併症の発症リスクを個人データ(遺伝情報などの生体情報や生活習慣などの情報)を用いて予測し、その予測に基づいた予防のための働きかけ、つまり予防的介入を行うことで、病気の発症遅延や防止を目指した新しいコンセプトの医療である。先制医療は、データを用いた精度の高い予防ともいえ、科学的根拠に基づいて発症リスクの高い個人を絞り込んだ上での介入を目指しており、個人の発症遅延や防止に対する動機付けを高めると同時に医療費削減が期待される。本稿では、先制医療による医療費削減が期待される糖尿病分野の注目すべき動向について述べたい。

糖尿病人口の増加と重い治療負担

2015年の国際糖尿病連合(International Diabetes Federation:IDF)の報告書1によると、世界における糖尿病人口(20-79才)は、4億1,500万人に上る。2040年までに、成人の10人に1人が罹患し、糖尿病人口は、6億4,200万人に達する見込みといわれている。特に、西太平洋地域2と南東アジア地域3で患者数増加は著しく、2040年にはそれぞれ、2億1,480万人、1億4,020万人に達すると推計されている。また、2015年の糖尿病に関連する医療コストは6,730億米ドルに上り、世界の医療支出の12%を占める。糖尿病患者の急増に伴い、さらなる医療費増大が予想されるため、糖尿病の発症遅延や防止が社会的な課題となる。
糖尿病の約9割を占める2型糖尿病4は症状が現れる前に治療を開始すれば軽快することも多く、健康的な食生活、適度な運動で予防可能な病気といわれている。しかし、2型糖尿病と診断された人のうち約4割は、症状が軽いものも含め糖尿病性腎障害を発症しており(糖尿病データマネジメント研究会調べ)、重症化した際には人工透析療法が必要となる。人工透析療法では、1回4時間、週3回が標準的な治療となるため患者負担が大きく、また、年間医療費が約500万円と高額であり、医療費削減の観点からも糖尿病の先制医療に対する期待が高まっている。健診を受診する機会がなく、糖尿病と診断されずに適切な治療を受けない状態が続くと、前述の糖尿病性腎障害以外にも、高血糖が常態化し、糖尿病網膜症や糖尿病性神経障害などの合併症を併発することから、糖尿病および糖尿病合併症の発症遅延と防止が重要となる。

糖尿病の先制医療における注目すべき動向

糖尿病および糖尿病合併症の発症遅延と防止を目的とした先制医療には4段階ある(図)。

第一段階:健康な人が糖尿病を発症しないよう教育・啓蒙する。
第二段階:糖尿病を発症する可能性の高いハイリスク群に対して、遺伝子診断などを用いて発症を予防する。
第三段階:糖尿病と診断された人に対して、生活習慣指導や必要に応じて投薬を行うことで血糖適正値の維持や合併症の回避を目指す。
第四段階:治療中の糖尿病患者に対して糖尿病の重症化と合併症発症を予防する。

現在、上記各段階においてさまざまな介入方法が模索されており、注目すべき動向として以下が挙げられる。

糖尿病の0次予防対策(図の①):
世界保健機関(World Health Organization)では、糖尿病の予防対策として、健康な人に対する啓蒙活動や健康状態の調査・経過観察方法などが検討されている。今後、得られた知見は全世界に展開され、先制医療に役立てられると思われる。

遺伝子診断による早期診断(図の②):
先制医療において遺伝子診断は注目度の高い研究領域といえるが、個人における糖尿病発症予測は精度改善が必要な状況である(現在、糖尿病関連の遺伝子が90以上同定されている)。2型糖尿病は遺伝子のみならず環境要因などの複数要因によって発症する病気であることから、遺伝情報に加えて、個人を取り巻く環境要因の情報(個人の胎児環境や出生後の食習慣、運動量など)をもとに発症を予測するさまざまな研究が進められている。また、糖尿病や合併症の発症には人種差があることから、我が国では厚生労働省主導のもとで、日本糖尿病学会、国立国際医療研究センター等を中心として日本人に適した糖尿病の予防法を探るための大規模試験「糖尿病予防のための戦略研究(Japan Diabetes Outcome Intervention Trial:J-DOIT)」を実施している。本研究では、糖尿病発症リスクが高いとされる人の糖尿病発症率を半減すること、治療中断率を半減すること、合併症発症を30%減らすことを目的としており、研究結果をもとに日本人のための糖尿病や合併症の発症遅延や防止策が検討されている。

血糖値モニタリング機器の開発(図の③):
血糖値の持続的なモニタリング機器では、患者QOLの向上等に重点が置かれ、インスリン投薬機器と一体型になったウエアラブル型の開発が進められている(アイルランドのメドトロニック社のミニメド620G等)。また基礎的な研究段階ではあるが、手首半分をフィルムで巻くような形のデバイスで汗の中の血糖値を持続的に測定しながら、血糖値変動に対応して糖尿病治療薬(メトフォルミン)を微侵襲かつ経皮的に自動投与するウエアラブル機器の開発が米MC10, Inc.、韓国ソウル大学らの共同研究チームによって取り組まれている。将来的には、人工知能などを活用することで血糖値変動を予測し、全自動で投薬可能な機器の開発が期待される。

糖尿病疾患管理アプリの普及(図の④):
米国では、患者が治療や通院を継続するためのモチベーションを維持すること、医師が在宅患者の状態を的確に把握することを目的とした糖尿病疾患管理アプリBlueStar(米ウェルドック社)が2010年にFDAに承認された。BlueStarは、血糖値測定器と連動した患者介入サービスで、毎回診療前には患者の血糖値、服薬、体調の記録、状況経過に関するレポートが医療チームに送られ、効率的な診断をサポートしている。2型糖尿病患者163名を対象とした臨床試験において、BlueStarを利用することで、これまでの治療効果がさらに高まることが示されている(血糖値管理指標である糖化ヘモグロビン値(HbA1c)が従来どおりの治療を受けたグループよりも1年間で1.2%減少した)。BlueStarは科学的根拠に基づいたアプリであるため、通常の医薬品と同様に医師が処方しており、米国の複数大手保険会社が保険償還の対象としている。また、患者自身が血糖値の管理や病気について学習ができるだけでなく、アプリ上で専門家に質問もできるため、情報共有のプラットフォームとしても機能している。

低・中所得者層向けのシュガークリニック(図の⑤):
リアルな場のプラットフォームとしては「シュガークリニック」が挙げられる。「Clínicas del Azúcar」は、米マサチューセッツ工科大学MITスローンを卒業したJavier Lozano氏が低・中所得者層向けに糖尿病の重症化予防を目的として、2010年に母国メキシコに設立したヘルスケアセンターである。本クリニックは、クリニック、カウンセリング、検査、薬局、物販(低糖質食品の販売や足が壊疽した患者向けのフットケア用品や靴販売など)、コミュニティ(体操クラス、栄養指導)の場などを併設した新しい形態のOne-stop-shop型クリニックチェーンである(現在、9施設)。年間300ドルを支払った会員は全てのサービスにアクセスでき、集中購買の仕組みを利用したディスカウント価格で医薬品を購入できる。

先制医療実現のための鍵

今後、遺伝子診断や血糖値測定器などの検査技術の高度化や、リスクに応じた多様な予防的介入など、糖尿病分野における先制医療の実現へ向けた研究が進むと予測される。そのなかで遺伝情報の取り扱いなど個人情報に留意したデータシェアリングの推進が重要な課題となるが、生体情報や環境要因の情報を組み合わせた大規模データ解析により、どのようなヒトが病気になるのか、どのような先制医療に効果があるのかなどが解明され、より個別化した予防戦略の確立が期待される。今後、これらの検査技術や介入サービスが社会実装するには、サービスの受け皿となるプラットフォームとして、糖尿病疾患管理アプリなどのモノと連動した患者介入サービスや、シュガークリニックの成長にも期待がかかる。また、これらのサービスなどの普及には各国の医療制度に合わせた展開が必要となるが、シュガークリニックの普及が進み、アプリと組み合わせることで、より一層効率的な患者ケアと先制医療の実現に貢献できるだろう。


  1. 「Diabetes Atlas」http://www.diabetesatlas.org/
  2. IDFが定義する西太平洋地域:日本、韓国、北朝鮮、中国、モンゴル、ASEAN諸国、オーストラリア、ニュージーランド、オセアニア島嶼国等
  3. IDFが定義する南東アジア地域:インド、バングラデシュ、ネパール、ブータン、スリランカ、モルディブ、モーリシャス
  4. 膵臓β細胞が壊れてしまったことによるインスリン欠乏により発症し、発症者の大半は小児となる。2型糖尿病は遺伝的になりやすい集団が存在することも分かりつつあるが、肥満・運動不足といった生活習慣により中年以降に発症するケースが多い。

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