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株式会社三井物産戦略研究所

タイの混乱が示唆する新興国の農業政策の在り方

2014年7月14日


三井物産戦略研究所
産業調査第二室
野崎由紀子


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2014年5月、タイのタクシン派インラック政権が崩壊した。その背景の一つにコメ担保融資制度がある。この制度は、農産物の価格形成を通じて間接的に農家の所得を向上させることを目的とする「価格支持」の一種であり、同様の政策は過去にも世界的に行われてきているが、タイではその過度な財政負担が政権崩壊の一因となった。ここでは、タイのコメ担保融資制度と各国で行われてきた類似の政策との比較を通じて、これからの新興国における農業政策の方向性を探る。

政権崩壊の一因となったタイのコメ担保融資制度

担保融資制度は、コメに限らず他の農産物にも適用可能で、作付け時点で資金が不足する農家に対し、既に収穫済みの農産物を担保として差し入れることを要件に、肥料などの生産資材を購入するための資金を融資する短期融資(つなぎ融資)の仕組みである。担保評価額(融資単価)は、生産コストに相当する水準とするケースが多く、市場価格よりも低く設定されるのが一般的である。農家は、融資資金を用いて生産資材を購入して栽培を行い、収穫後に農産物を市場で売却することで得た資金で元利金を返済する。返済時点で市場価格が融資単価を下回る場合には、返済せず担保流れにすることもできる。この点で、農家に対して一定の最低価格を保証する性格を持つ。
この仕組みがタイで導入されたのは今回が初めてではなく、コメ農家の多い東北部を支持基盤とするタクシン政権などでも行われていたが、制度開始当初から市場価格と融資単価が大きく乖離することはなく、融資を利用する農家の数は限定的であった。その後、反タクシン派アピシット政権下で制度は一時中断されたが、同制度復活を選挙公約に掲げるタクシン派インラック前首相が2011年に政権の座に就き、再び制度が導入された。ところが、今度は、融資単価が当初から市場価格よりも4~5割高い水準に設定され、政府が事実上買い取ることにより農家への資金を供給する制度へと変質した。これにより、農家にとっては、収穫したコメを市場価格で売却するよりも、当初から担保流れにするつもりで融資を受ける方が有利であるため、融資利用者が急増し、コメが市中に出回らなくなったことで価格が高騰した。
一方、インラック政権は当初、農家から事実上買い取ったコメを国外に売却することを想定していたが、同時期にインドがコメの輸出を増やしたために高値では売れず、タイの輸出シェアが奪われ、その輸出量は2010年度の1,000万トンから2011年度および2012年度には600万トン台まで激減、政府は大量の在庫を抱えることとなった。それでも政府は制度を維持し、農家向けの財政支出を続けたため、財政は破たん寸前まで陥り、都市部を中心とする反政府グループの反発を煽る一因となった。
その後、政府は、融資単価の引き下げや農家一戸当たり融資上限の設置などに踏み切り、さらに、農家への融資原資確保のため、累増した在庫の国外放出を加速させたが、2013年末には財源が枯渇し、農家への資金供給が滞った。これにより、政権を支持してきた農村部の一部にも政府への反発が広がり、政権の基盤が弱体化した。
2014年5月以降の軍政の下、農家への資金供給は再開されたが、6月にはコメ担保融資制度の廃止が発表されており、当面は積み上がった政府在庫の処分が残された課題である。

各国で繰り返されてきた「価格支持」の歴史

農家の所得向上を目的に財政負担で農産物の生産者価格を一定水準に維持するための「価格支持」は、タイのコメに限らず、先進国を含め古くから世界各国で行われている。また、「価格支持」の導入以降、農家の生産意欲向上、過剰生産、政府在庫の膨張、在庫処分、財政悪化という一連のプロセスをたどった後、「価格支持」水準の引き下げを含む制度の再構築により安定化を図るという展開も、各国に共通している。
米国では1929年、農産物を担保とする短期融資の公的な枠組みが世界に先駆けて開始された。この枠組みは世界大恐慌の影響で一旦停止されたが、1933年に再開されると、徐々に融資単価が引き上げられ、事実上の買い取り制度と化していった。1950年頃からは、今回のタイと同様、米国産農産物の価格が上昇し、国際競争力を失って輸出シェアを落とした。一方、国内で価格が高く支持されることで農家の生産意欲は高まり、過剰生産を招き、政府の在庫は急増した。その間、補助金付き輸出などによる放出も試みたが、財政悪化には歯止めがかからず、1973年以降、融資単価が大幅に引き下げられ、それによる所得低下を直接的に補助金支払いで補う「所得支持」が導入されていった。
フランスでも、1936年に小麦を中心に、所定の買い取り単価を市場価格が下回った場合に政府が買い取ることで、国内価格を下支えする仕組みがスタートした。この仕組みはその後のEEC、EC、EUの共通農業政策(CAP)にも受け継がれているが、国内(域内)価格が保証されたことで、農家の生産活動が促され、供給が国内(域内)需要を超えた。その余剰在庫は、1990年代に是正されるまで補助金付きで輸出され続けたが、国内価格が支持される一方で国際価格が低下し、内外価格差が拡大、輸出補助金が膨らんだ。それ以後は、内外価格差を縮小させるべく、買い取り単価の引き下げが行われ、引き下げ分の一部を「所得支持」で補塡する方向へと政策転換している。
日本では、戦後、政府によるコメの買い取りが開始されたが、1960年代初頭に買い取り単価が、農家の労働時間と都市労働者の賃金を組み合わせて算定されるようになった。このため、高度経済成長に伴う都市部の労働賃金の急上昇に合わせて、買い取り単価は引き上げられていった。一方、買い取られたコメは諸外国と異なり日本国内で売却されたが、売渡単価は、買い取り単価と並行して上昇はしたものの、1963年以降1982年まで買い取り単価を上回ることなく、財政を悪化させた。また、食生活の変化でコメの消費が減少に転じたことで、在庫(古米)が膨張し、生産調整や在庫の廃棄処分も進められた。1990年代後半以降は、「価格支持」のための政府買い取りは廃止され、コメの国内価格が下落を続けるなか、農家保護の軸足は「所得支持」へ移されている。
近年では、新興国でも「価格支持」が行われている。中国とインドでは、それぞれ1990年代、政府による高値での穀物の買い取りが行われた。この制度は先進国の事例と同様に、農家の生産にインセンティブを与え、過剰生産をもたらした。その結果、政府の在庫が積み上がり、輸出で売却されたが、安値での放出で財政支出が膨らんだ。その後、一旦は買い取り単価の引き下げなどで落ち着きを見せるが、現在、買い取り単価は再び引き上げに転じており、政府在庫も膨張してきているといわれている。
このように多くの国で「価格支持」に関してタイと同様の問題は生じても都度調整され制度は維持されてきているが、今回のタイの場合には、財政負担が先例に比べてはるかに巨大であった。今回のタイの損失は累計で5,000億バーツ(154億ドル)を超えるともいわれ、2013年度政府支出の20.8%にも相当する。一方、日本のコメの政府買い取り制度による損失は、ピークの1974年から1976年までを累計すると2兆5,032億円(現在の通貨価値で表すと3兆289億円)であり、これは当時の一般会計支出(1976年度)の10.2%である。また、米国で最初の農産物担保融資制度が一旦停止に追い込まれたときの損失は累計3億ドル(現在の通貨価値で表すと44億ドル)超といわれるが、大恐慌下にあった当時ですら政府支出(1932年度)の6.4%であった。今回のタイの財政負担が日本や米国と比べても高い水準であることは明らかである。

新興国でも農業の自立を目指した農業政策へ

こういった各国の事例からも読み取れるように、先進国を中心に、農産物の価格形成における市場メカニズムの攪乱につながりかねない「価格支持」は縮小・廃止される方向にあり、特にWTO発足以降はその傾向が強まっているが、それに代わる「所得支持」もまた、現在は抑制の方向へ向かっている。
EUでは1990年代以降、保護レベルが引き下げられたことで、経営基盤が脆弱な農家の離農が促され、強い農家に余剰農地が集約することで、戸当たり規模が拡大したといわれている。2014年に改正された共通農業政策では、そうした規模拡大を遂げ低コスト生産に耐え得る強い農家への支払いが抑制され、農業が産業として自立したことが伺える。米国でも、所得水準が高まり自立した農家が増えるなか、「所得支持」の一つである直接固定支払いが必要性を失い、2014年2月の農業法で廃止されている。先進国はもはや、農家を社会的弱者と捉え保護するステージにはないといえる。日本でも、2015年度からは補助金の支払い対象者をより経営感覚のある農業者に限定する方向にあり、農業の自立を視野に入れた産業政策的な性格を持つ農業政策へと舵を切り始めている。
新興国に対してもWTOは、先進国に準じる「価格支持」の削減と規律ある農業政策を要求しており、今回のタイの事例からも、財政規律を保ち節度ある保護が求められることは明らかである。しかしながら、新興国では、食糧が国内に十分に供給されない国も多いことに加え、農村部に多い低所得層へのセーフティネットという社会政策的な側面もあり、農業保護策は当面続けざるを得ない。実際、WTOの規定でも、新興国に対しては特例として「価格支持」の削減義務で一定の配慮がある上、セーフティネットを目的とする場合に限り、新興国における補助金込み価格での公的な買い取りや備蓄、逆ザヤでの国内食糧供給は容認されている。また、今回コメ担保融資制度が崩壊したタイでは、代わりの新たな農家保護策として作付面積当たりの補助金支給の導入が検討されている。
それに加えて、農業生産資機材の購入支援や、コスト削減や品質改善のための農業指導など、農業の自立を目指した産業政策的な役割を担う農業政策も進められている。例えば、近年、中国では、農業の近代化に資する種子や肥料などの農業生産資材や農業機械を購入するための補助金が急増している。また、今後のタイの新たな農家支援策には、前述の補助金支給のほか、農業資機材価格や小作料の引き下げ、借入金利の負担軽減なども盛り込まれており、生産コスト削減策に重点が置かれたものになるとみられる。こうしたセーフティネットのための施策と産業育成のための施策との並立が、新興国における農業政策の骨格として今後は主流になっていくであろう。

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