がんという病気は「まさか」ではない。元がんセンター長 林先生と考える、がんとの向き合い方

2024.03.26

今では、日本人の2~3人に1人が一生のうちに何らかのがんにかかるといわれています。がんは誰もがかかる可能性のある「身近」で「命に関わる」病気でありながら、がんの検診率やがん患者の失職率の現状を見るに、がんに対する正しい知識はまだ多くの方に知られていないのが現状といえます。
今回は、がんに関する啓発活動を長年行ってこられた元東京女子医科大学がんセンター長で、現在は神楽坂乳業株式会社の代表取締役を務める林先生をお迎えし、これまでのご経験や取り組みを紐解きながら、現代を生きる私たちのがんとの向き合い方、そして、ヘルスリテラシーを高めることの重要性について教えていただきました。

林 和彦 氏

神楽坂乳業株式会社 代表取締役
聖マリアンナ医科大学 客員教授

1986年、東京女子医科大学消化器外科に入局。1994年、米国南カリフォルニア大学senior research fellowを経て、1996年にAmerican Society of Clinical Oncology(ASCO)Merit Awardを受賞。その後、2010年より東京女子医科大学の化学療法・緩和ケア科教授となり、2014年、同がんセンター長に就任。2020年に早期退職し、医師としての専門知識を生かして腸内環境を改善するヨーグルト「神グルト」を製造する神楽坂乳業株式会社を立ち上げる。長年がんの啓発活動に取り組むなど、医師としての活動を続けながら精力的に社会活動を続けている。

「がん」とともに歩んできた半生

がんセンターを設立した大きな意義は、がん医療水準の均てん化を図ることでした。「均てん化」とは聞き馴染みがない言葉かもしれませんが、全国どこでもがんの標準的な専門医療を受けられるように、医療技術の地域格差を是正していくことです。その施策として、がん治療の診療連携拠点となる中央センターの整備が進められてきたことがきっかけです。
背景としては、そのようにいえますが、私が、がんセンターの設立をはじめ「がん」という病気に使命感を持って向き合ってきたのは、自身の人生が「がん」というテーマとともにあると考えているからです。今に至るまで揺らいだことのないその信念は、振り返れば中学時代に最愛の父をがんで失ったことが最も影響していると思います。そのときから、父や私のような経験をする人をなくしたい一心で突き進んできました。目の前の患者さんを苦しませる病気をなくしたいという想い、また治療にとどまらず、病気になったことで人を苦しめる物事や矛盾が社会にあるならば解決したい、そうした想いが原動力となってきました。

今の世の中、「名医」は必要なくなったと感じています。
これだけ知識や技術が標準化してきた医療界では、いわゆる「ブラックジャック」は必要ないと思います。今、必要とされるのは「良医」だと思うのです。
医療の基本は手を当てたところから始まります。お腹が痛かったら、お腹を押さえますし、身近な人が苦しんでいたら、さすってあげると思います。そのように自然と手が出る、その延長線上に医療があります。医療は進歩しているように思われるかもしれませんが、まだまだ完治させることができない病気はたくさんあります。それでも、苦しんでいる人の身体に手を当て、寄り添うことで救える部分がある、それが医療の本質ではないかと信じながら従事してきました。
医療の均てん化が進む中で、今やエビデンスを重視する医療へと変化してきています。エビデンスに基づいた医療は、もはやフローチャートで診察や治療が進む世界です。これまでは、病院によって治療が異なるケースも多くありました。それぞれの医師がベストだと考えた治療をとってきたからです。一方で、均てん化によってガイドラインが整備されると、医師自身に豊富な知識や経験があり、画期的な治療方法を思いついたとしても、ガイドラインから逸脱することはリスクとなります。つまり、ガイドラインに則った医療のもとでは極論、誰が行っても変わらないともいえます。
また、医療は進歩し続けており、例えば、過去の術式や抗がん剤治療の知見を持った医師よりも、現場で最新の抗がん剤の治療を提供する若手医師の方が最良の治療を提供できるようになります。最先端の医療に対しては、私が担当するよりも未来の医療を担う若手たちにできるだけ経験を積んでもらった方が未来の発展につながると考えるようになりました。その上で、自分にできること・すべきことを考えた時に、私自身人の心を動かすような伝え方や発信には少なからず自負がありましたので、がんセンター長であった当時から取り組んできた、がんの啓発活動を主軸とする方向へ舵を切りました。

がん教育で未来の「常識」を変えていく

がんは私たちにとって身近で、命に関わる可能性もある病気でありながら、がんにまつわる知識は国民に浸透しきっていません。自分の身に降りかかった場合、「どうして?」「まさか」と感じる方が多いと思いますが、実際、2〜3人に1人がかかる病気です。そして、がんの65%は治る病気であることを正しく知っていれば、自分や家族が罹った際の恐怖は少しでも軽減されると思うのです。知らないことは、とても怖いことであり、知ることで人は強くなれるのです。
しかし、長年、がんの啓発に医療界と行政が連携して取り組んできたものの、検診率やがん患者の失職率はあまり改善されず、無力感を感じてきました。がん検診における意識調査の中で、がん検診に行かない最たる理由として挙げられるのは「忙しいから」という答えです。果たして本当でしょうか?健康を保つことは、命を守ることです。命を守ることよりも重要な予定で毎日が詰まっている人が一体どれだけいるでしょうか?健康が失われてからでは遅いのですが、こうした大人の意識を変えることの難しさと限界をありありと感じてきました。
そこで、大人ではなく、若い世代にがんを正しく理解してもらうため、学校教育に目を向けました。日本は義務教育ですから、地方でも都市でも、全国の子どもたちが同じカリキュラムを学ぶことができる、つまり、国民の意識を変えていくための究極の啓発の機会といえます。そのためには、学習指導要領に「がんについて学ぶ」という項目を盛り込む必要がありました。文科省や教員から理解を得ることは容易ではなく、学校教育の現場に正面から向き合うために、当時、勤務医としての業務の傍ら3年かけて教員免許も取得しました。そうした取り組みの中で徐々に味方が増えていき、中学校では2017年、高校では2018年より晴れて学習指導要領にがん教育を盛り込んでいただくことができたのです。

全国津々浦々、300に及ぶ小中学校を訪ねましたが、子たちたちはがんについて何も知らないかというと案外そうではなくて、非常に具体的なところまで理解している子どももいました。何より、多くの子どもたちが真剣に向き合い、柔らかい頭で多くのことを学びとってくれました。
「がんになるとどうなるのか?」と問いかけると、肉体的なことだけではなく、「やりたいことが思うようにできない悲しさ」、「がんになった自分を責めてしまうかもしれない」といった精神的な部分まで彼ら彼女らからは返ってきます。「大事な人ががんになったらあなたは何をしますか?」という質問では、「花束や千羽鶴を渡して笑顔になってもらいたい」、「少しでも長くそばにいて楽しい話をしたい」など、自身の頭で考えながら答えてくれました。
大人である私たちがすべきことは、子どもたちがこのすばらしい感性や気持ちを持ったまま大人になれるような教育をすることだと感じています。
東京都練馬区にある中学校を訪れた際、こちらが思っていることを先回りするかのようにすばらしい答えばかりが返ってきて驚いたことがありました。校長先生に「どういう教育をされているのですか?」と尋ねたところ、「子どもたちの過半数は小学生の時に林先生のがん教育を受けています」と言われたのです。かつて、私が授業をしたかもしれない子どもたちが、それをしっかり自分のものとしていて、さらにパワーアップした中学生になっていたことに、心から嬉しさを感じました。
現在は、学習指導要綱に基づいて全国の教員の方々が、がん教育をしてくださっています。東京都では2022年度末までに、全ての学校でがん経験者や専門医といった外部講師を活用したがん教育を充実させるというロードマップも達成することができました。医療と教育という人間にとって大きな2つの領域を経験できたことは、私自身をも大きく成長させてくれました。

そして行き着いた「ヨーグルト屋さん」、がんと向き合う社会を変えていくために

がん患者さんが直面する就労問題として、がんを宣告された勤務者の約3割が自ら退職をしている現状があります。「周りに迷惑をかける前に辞めよう」、「一旦治療に専念して、復帰したら頑張ろう」といった思いによるものですが、社会復帰を試みてもブランクを理由に受け入れられないことも多いのです。
厚生労働省による「がん対策企業アクション」というプロジェクトでは、がん検診や企業に向けたがん患者の就労に対する提言に長年取り組んでいますが、なかなか目に見える成果につながっていません。企業向けの講演などにも登壇しましたが、すでに人事制度や企業文化が確立している企業に、こういった新たな施策を取り入れてもらうことの難しさを実感しました。
実際、私の身近にも就労問題を抱える患者さんがいらっしゃいます。会社勤めをしていて、闘病を経験した方々は、もともと能力がある上に、闘病によって価値観が大きく変化し、命があること、健康でいられることのありがたみを強く抱いているため、高いモチベーションや貢献意欲を持っています。そういった方々がブランクや後遺症を理由に仕事ができないなんて、どれほどもったいないことでしょう。
そこで、私は、東京女子医科大学を還暦で退職し、後述する多様な患者さんが働ける事業会社を設立しました。従業員への還元を第一の目的に据えて、勤務時間は定めないジョブ型の体制をとって、可能な限り個人事業主として雇用したいと考えています。多様な人材を採用し、従業員が幸せに働いて業績も伸びていく、そんな企業を実現することができれば、他の企業も真似したいと思ってくれるかもしれないと考えました。

「神グルト」は、医師としての知識を生かし、腸内環境改善のために、考えうる全ての可能性を盛り込んで開発したヨーグルトです。この事業を通して、医学的エビデンスのある「メディカルフード」を日本にも導入することを目指しています。きっかけの一つは、がん治療の専門医だった頃に、不当に高額なサプリメントなどの健康食品にすがる患者さんを見てきたことでした。このような事態を避けるには、厳密な食品制度が必要となります。「メディカルフード」の必要性を、事業を通して訴え、この働きかけによって社会に一石を投じることができたらと考えています。
医療とは、病気になってしまった人を救うことですが、その前段階で食い止めるに越したことはありません。早期発見・早期治療はもちろん、食べ物などの生活習慣によって予防できるのであれば、それが一番ではないでしょうか?実際、万病に関わる腸内環境を整えることは、うつ病などにも効果があるといわれています。まさに「神グルト」は、未病の領域の中でも先進的だと自負しています。

無理を無理だと思わない気持ちでこれまで進んできたからこそ、できたことがたくさんあったと思っています。例えば、がんセンター長を務めながら教員免許を取得するなど99.9%不可能だと思われると思いますが、自分自身が無理だと思わなかったからこそ叶えることができました。客観的に見てどう思われるかは一切関係ありません。無理だと思うのは、無意識のうちに自分で自分を制限して、心の奥底の本心と十分向き合えていないのではないでしょうか?
さらなる挑戦としては、「神グルト」の事業で一定の収益を得た後、その資金を活用して学校法人を設立したいと考えています。こうした挑戦をこれからも続けて、一生を生き抜いた時に、振り返って「良かった」、「面白かった」と心から思える人生にしたいと思っています。