株式会社三井物産戦略研究所
ブラジル経済の現状と展望-今は痛みに耐えるしかない-
2015年11月9日
三井物産戦略研究所
北米・中南米室
片野修
Main Contents
労働者党政権下でのブラジル経済

2003年に労働者党政権が発足して以降のブラジル経済は、2008年の金融危機で一時的に実質GDPのマイナス成長を経験したものの、概して順調な成長軌道をたどってきた(図表1)。
この背景には第一に、中国など新興国の経済成長や米国経済の安定的な景気拡大に伴う「資源ブーム」がある。これにより、鉄鉱石、原油、大豆の輸出が増加し、国内では関連産業の生産・雇用拡大が見られた。
第二に、労働者党政権の政策の柱であった「所得再分配政策」、すなわち中・低所得層をターゲットとした拡張的財政政策が内需を喚起したことがある。個人消費は、金融危機の影響で設備投資が落ち込んだ2009年にもプラスを維持するほど堅調であった。
しかし2014年に入り、資源ブームが中国経済の減速とともに終焉した。それによる企業収益の悪化により税収が伸び悩み、所得再分配政策の継続は財政赤字を拡大させることが白日の下にさらされることとなった。過去のデフォルトの反省から均衡財政をマクロ経済運営の柱に据えるブラジルだが、2014年の財政収支GDP比は-6.2%で、過去10年の平均同-2.8%、2013年の実績同-3.1%から急激に悪化し、また、利払い費を除く基礎的財政収支は同-0.6%と、2003年以降では初めてのマイナスとなるなど、政権は危機感を強めた。
2014年の大統領選挙で再選を果たしたルセフ大統領は、景気配慮の姿勢を打ち出した選挙公約を翻して、2015年以降の第2期目では徹底した財政再建のための緊縮策に乗り出した。これにより、資源ブームの終焉で減速していたブラジル経済は一層冷え込むこととなった。
特徴的なのは、2003年の労働者党政権発足以来一貫して堅調に推移してきた個人消費の伸びがマイナスに転落していることである(前出図表1)。このことは、労働者党政権が推進した家計部門を主体とする消費主導型の成長モデルが限界にきたことを示しているだけでなく、同政権が最重要視し、自らの支持基盤としてきた低所得層に対して痛みを強いる財政再建を実施するに及んで、労働者党政権の存在意義そのものに疑問符を付けざるを得ない状況になっているといっても過言ではない。
以下では労働者党政権が支援してきた家計部門が一転していかに傷んでいるかを中心に、ブラジル経済の苦境を概観する。
低所得層への逆風

家計の苦境の背景には、公共料金の引き上げや補助金の削減といった財政再建に由来する「官製インフレ」、資本逃避による通貨レアル売りに起因する「輸入インフレ」、さらにはインフレに対処するために実施されてきた利上げ・高金利政策の3要因がある。
まずインフレ率について概観すると、2013年に前年比6.2%、2014年に同6.3%(いずれも年平均)だったものが、2015年に入り急上昇し、直近の2015年9月では前年同期比9.5%となっている。2015年に入ってからの財政再建で公共料金やエネルギー価格が引き上げられたことが大きい。なお、9月のインフレ率9.5%のうち、財政再建に起因する「官製インフレ」の分は5.1%ポイントと試算される。
高インフレに直面する家計部門の苦境は深刻である。特に問題視すべきは低所得層へのダメージである。例えば、輸入インフレに連動している食料品インフレ(9月前年同月比10.0%)は、エンゲル係数が3割程度と(富裕層の1割強と比較して)高い低所得層の生活を直撃している。また、緊縮財政の結果上昇している電気料金や公共料金においても、世帯支出に占めるウエートは低所得層の方が富裕層よりも高い。しかも、食料品や電気は必需的で節約しにくい消費である。足元のインフレは、労働者党政権が支持基盤としてきた低所得層の生活を一段と苦しくしているといえよう。
このインフレとともに家計の逆風となっているのが中央銀行の利上げである。その影響は、労働者党政権が推進した消費主導型経済成長の動きを示す消費者信用(日常的な消費の際に組まれるクレジットやローン)残高のGDP比が、今般の利上げ局面において低下傾向である点に顕在化している(図表2)。労働者党政権下のブラジルでは、景気拡大に伴う所得増加に連動して、あらゆる消費財の割賦での購入が一般化したが、信用残高の拡大により家計の金利感応度も高まったとみられる。よって、利上げは消費行動にマイナスの影響を与えている可能性が高い。本来であれば政府と中央銀行は、財政引き締めによるショックを和らげるために金融緩和による内需下支え策を打ちたいところだ。しかし、米国の利上げ観測がくすぶるなかで「通貨防衛」のために金融引き締め策を実施せざるを得ないところに現在のブラジルの苦境が見て取れる。
雇用悪化と政治リスクの増大

インフレと高金利に加え、雇用環境の悪化にも要注目だ。失業率は2015年1月から9月までに2.0%ポイント上昇しており(1月5.4%→9月7.4%、6大都市ベース)、労働者党政権発足後の2003年1月11.8%からの改善基調は2015年に入り完全に転換したといえる。
深刻なのは正規雇用者の削減が顕著となってきた点である(図表3)。これまでの雇用調整は主に非正規雇用者において実施されてきた。しかし2015年以降の動きは、「聖域」として守ってきた正規雇用者の調整に着手せざるを得ないほど企業が苦境に陥っていることを示している。
2003年以降の労働者党の所得再分配政策を通じた消費主導型経済は、雇用の正規化による個々の消費者の信用度合いの上昇が支えていた側面がある。しかし今般の正規雇用者の減少は、消費者信用の拡大に水を差すこととなる。ここにも、労働者党政権の消費主導型成長モデルの限界を見いだすことができよう。
また雇用悪化による政治不信、政治リスクの高まりにも注意が必要である。今回の不況では、もともとルセフ政権に批判的だった高所得層のみならず、低所得層も、支持していた公約を破棄された形となったことで政治不信を高めている。
世論調査Datafolhaによれば、ルセフ大統領の支持率は8月時点で8%と1990年代の民政移管以降の最低水準に落ち込んだが、所得階層別の支持率では高所得層(支持率6%)のみならず、低所得層でも同10%と、極めて低迷している。それでもルセフ大統領は、現時点で辞任する意向はないと伝えられており、議会でも、長年の課題だった財政再建に取り組む大統領を引きずり下ろそうとする勢力は多数派を形成するには至っていないのが現状だ。
しかし、2018年末まで、任期を3年以上残す大統領の今後の政権運営は、次の選挙を視野に入れた与党内からの反発をはじめ、野党の非難、有権者の反政府デモの実施などの強い抵抗に直面する可能性が高い。景気(特に雇用)の悪化が続くとみられるだけに、今後議会で反ルセフ大統領勢力が拡大し、辞任を含む政治リスクが増大する可能性は否定できないだろう。
今後のブラジル経済
景気の今後を展望すると、家計の苦境は基礎的財政収支(プライマリーバランス)の黒字化実現まで継続するものと予想される。ただ、ブラジル政府は10月27日に2015年のプライマリーバランスの目標をGDP比0.2%の黒字から、同0.9%の赤字へと下方修正し、さらに2016年も黒字化は困難との見方が大勢である。この見方に沿えば、緊縮財政は当分の間継続することとなり、2016年までの消費の回復は期待しにくいと考えざるを得ない。
ただし、こうした苦境にあってもプラス材料はある。
第一にレアル相場である。目下1ドル3レアル台後半で推移しており、2014年の1ドル2レアル台から大幅なレアル安となっている。こうしたレアル安は輸出額の拡大ならびに競争力の向上をもたらし得る。実際に、1-8月のデータを見ると、輸出の伸びのうち数量要因は前年同期比5.6%伸びており、2014年通年の前年比-1.8%から好転している。こうした輸出改善は、緊縮財政の悪影響を幾分相殺するとみられる。
第二に高金利政策打ち止めの見通しである。現在の政策金利は14.25%と高水準に設定されているが(前出図表2)、2016年に入るとインフレ率を押し上げた官製インフレが剥落するため、インフレ率は現在の9%台から5~6%台まで低下すると予想されている。このため政策金利は2016年末には12%台まで低下すると予想されており(中銀の集計値では12.75%)、低迷する消費環境に薄日が差す可能性があろう。
第三に汚職捜査の進展である。目下、ルセフ大統領自身の違法行為が立証される形で大統領罷免に至る可能性は小さいが、予断を許さない状況が続くとみられる。ただ、今回の一連の汚職捜査を通じて際立っているのは汚職に対する司法当局の強い姿勢である。当局は前ルーラ政権の実力者であったジルセウ元官房長官の告発に踏み切ったほか、現職ではクーニャ下院議長にも捜査が及んでいる。有力者の告発をも厭わない司法の実行力を目の当たりにし、ブラジルの汚職体質に本格的なメスが入るとの期待も出よう。その強硬な捜査は深刻な政治・経済の停滞をもたらしてはいるものの、汚職撲滅は長期的にはブラジル経済にプラスとなるだけに、その推移を辛抱強く見守るべきと考える。