株式会社三井物産戦略研究所
中国への依存と反発で揺れる香港
2015年2月9日
三井物産戦略研究所
アジア室
八ツ井琢磨
Main Contents
香港で2014年9月末、次の行政長官選挙で民主派の立候補を事実上排除するという中国当局の決定に抗議する大規模な道路占拠デモが起き、12月半ばに警察による強制排除でようやく終結した。デモは予想以上に長期化したが、中国当局は「妥協せず、流血させず」を基本方針として香港政府にデモ対応に当たらせ、1997年の香港返還以降で最大の政治的混乱を比較的平穏に乗り切った。一方、香港で若い世代を中心に中国への反発が高まっている現実は、香港をアイデンティティ(帰属意識)の面から「祖国」に組み込むという中国の対香港政策がうまく機能していないという問題も浮き彫りにした。
本稿では今回のデモの背景にある香港の政治・経済環境の変化を分析するとともに、今後の中国・香港関係について展望したい。
中国との経済一体化を推進
中国に返還された後の香港では、経済の中国依存が深まっている。中国経済の急成長に伴い、1997年に香港の6倍だった中国の経済規模は、2013年に同35倍に拡大し、中国の近隣に位置する他の国々と同様に中国への依存を深めた。さらに香港は政策的にも中国との経済一体化を進めた。ターニングポイントは中国と香港の自由貿易協定(FTA)と位置付けられる「経済貿易緊密化協定(CEPA)」を2003年に締結したことである。2003年以降はCEPAの枠組みの下、中国本土からの個人旅行が段階的に解禁された。香港を訪問した中国人旅客は1997年の236万人から2013年に4,075万人に増加し、中国人観光客の急増が香港の小売業や観光業を潤している(図表1)。
近年は、香港のオフショア人民元市場の発展を促す金融協力が進んでいる。香港では2004年に銀行での人民元預金などの取り扱いが始まり、その後、2007年に元建て債券発行、2009年に元建て貿易決済、2011年に人民元適格外国人機関投資家(RQFII)制度が実現した。2014年11月には香港と上海の証券取引所を結ぶ株取引制度が創設された。中国が人民元国際化を進めるなか、香港はオフショア人民元市場として存在感を高めている。

経済面での埋没を危惧
香港が中国との経済協力を加速させている背景には、中国と世界を結ぶ香港の役割の重要性が低下しているという危機感がある。港湾サービス業に関しては、香港の港湾のコンテナ取扱量は2004年まで世界首位だったが、2005年にシンガポール、2007年に上海に抜かれた。中国で港湾整備が進んだことで、中継港として香港を利用する必要性が薄れており、2013年には深圳にも逆転され、世界第4位に転落した。
香港が強みを持つオフショア人民元業務でも、今後は競争が激化する見通しである。中国は各国との間で通貨スワップ協定締結や人民元決済銀行の設置などを加速しており、シンガポール、英国、台湾などのオフショア市場を競い合わせて人民元国際化を進める姿勢を強めている。香港は現在、人民元建ての預金残高や貿易決済取扱額、債券発行額で他のオフショア市場を圧倒しているが、今後は中国との一層緊密な協力関係が必要になる。
一方、中国が香港との経済協力を進めるのは、金融規制緩和や人民元国際化に香港を活用するといった経済的な理由のほか、かつて英国の植民地だった香港をアイデンティティ面から「祖国」に組み込んでいくという政治的な狙いがある。香港のミニ憲法に当たる香港基本法には、将来的に行政長官と立法会議員を普通選挙で選出する目標が明記されている。このため香港で普通選挙を実施しても、中国の意向が確実に反映できる政治情勢を生み出しておくことが望ましく、これが経済協力を通じて香港の民意取り込みを図る中国の対香港政策を形作っている。
強まる香港アイデンティティ
香港をアイデンティティ面から「祖国」に組み込む方針は、成功しているのだろうか。香港大学の民意研究プログラムの調査は興味深い結果を示している。この調査は、香港の住民に「香港人」「中国の香港人」「香港の中国人」「中国人」の4つから自らのアイデンティティを選択させるものである。このうち香港アイデンティティが最も強く、中国アイデンティティが最も弱いと考えられる「香港人」との回答比率の推移を示したのが図表2である。全年齢層では当初は低下傾向が続いたが、2008年上期を底に上昇傾向に転じ、2014年下期には42.3%となった。18~29歳では2014年下期に59.8%に達し、「中国の香港人」の21.8%、「香港の中国人」の11.0%、「中国人」の6.5%を大きく上回った。若年層を中心に香港アイデンティティが強まっている様子がうかがえる。
香港アイデンティティが2008年前後を境に低下から上昇に転じた原因として、経済面では、中国との経済一体化のマイナス面が認識され始めたことが影響している。中国から押し寄せる観光客や投資マネーは財界を潤す一方、物価や家賃の高騰が庶民の暮らしを圧迫している。特に中国の富裕層による不動産投資が市況を過熱させ、香港の不動産仲介大手が算出している中古住宅価格指数に基づくと、香港の住宅価格は2010~14年の5年間で79%上昇した。2013年には中国人による粉ミルクの買いあさりが社会問題となるなど、日常生活レベルで経済一体化のマイナス面を実感する機会が増えたことも、中国と心理的に距離を置く香港アイデンティティを強めている。

締め付けと反発の連鎖
香港アイデンティティは、中国当局の政治的締め付けによっても強まっている。2012年に起きた「国民教育科」の導入をめぐる騒動は、中国による締め付けを象徴する。国民教育は「中国の国情に対する認識を深め、中国国民としてのアイデンティティを強める」ことを目的としたもので、香港政府が3年かけて小中高校で必修化する方針だった。しかし共産党寄りの考え方を教え込む「洗脳教育」であるとして大規模な抗議デモが起き、結局、香港政府は2012年9月に必修化を事実上棚上げした。
2013年3月に習近平国家主席をトップとする新体制が正式発足した後は、締め付けと反発の連鎖が強まっている。2014年に入ってからは、6月に中国当局が「香港における一国二制度の実践」と題する白書を発表し、「(中国政府は)香港に対する全面的な管轄権を持つ」と強硬姿勢を示すと、同月下旬に民主派が実施した選挙制度改革に関する非公式の住民投票には、中国への反発の高まりから、予想を上回る79万人(香港の総人口の1割強)が参加した。そして8月末には中国当局が2017年の行政長官選挙に関する基本原則を示し、香港の住民が1人1票を投票する「普通選挙」を認める一方、民主派の立候補を事実上不可能にする選挙方式とすることを決定した。9月末に始まった道路占拠デモは、この中国当局の決定に対する反発として起きた。デモは警察による強制排除で終結したが、選挙制度改革に関する中国当局と民主派の立場の隔たりは大きく、相互不信の連鎖が収束する兆しは見えていない。
「中華民族の偉大な復興」と香港
以上のような香港の政治・経済環境の変化を踏まえ、今後の中国・香港関係を展望すると、経済面では香港が中国への依存を深め、中国が経済協力を通じて香港の民意取り込みを図るという基本構造は続く見通しである。中国本土と香港の間では2016~17年に「香港珠海マカオ大橋」と「広州深圳香港高速鉄道」の開通が予定され、インフラ面から経済一体化は加速する。中国人観光客の急増も続く公算で、香港政府によれば、香港を訪問する旅客数は2013年の5,430万人(うち中国人4,075万人)から2017年に7,000万人、2023年に1億人に増加する見通しである。オフショア人民元市場の拡大も追い風となり、金融、観光、小売業などが香港経済を牽引していく。一方、物価・家賃の高騰などを適切に対処できなければ、中国に対する不満が強まる可能性もある。
政治面では、2017年の行政長官選挙の実施方式を決めるのが当面の課題である。香港立法会(議会)では、2015年半ばに選挙制度改革の法案審議を行う。今のところ立法会で3分の1以上を占める民主派議員は、中国当局が示した選挙方式を「偽の普通選挙」として否決する構えである。また将来は立法会議員の全面的な普通選挙という問題も控えており、選挙制度改革をめぐる火種はくすぶり続けるとみられる。
香港における選挙制度の民主化を求める声の高まりは、香港が成熟社会に移行するなか、財界などの既得権益層にとって有利な政治の枠組みを改め、多様な価値観を受け入れる社会を築きたいと考える人々の願望を映している。こうした問題は、中国当局がいずれ中国本土でも直面するものである。また急速に強大化する中国の「周辺」に位置することで中国への依存と反発で揺れる構図は、台湾、チベット、新疆ウイグル自治区などとも共通している。習近平政権は、中国が19世紀半ば以降に国力を衰退させた近代史を念頭に「中華民族の偉大な復興」というスローガンを掲げ、国力増強や国威発揚を図るとともに、将来的な台湾との統一などを視野に入れている。しかし既に主権を取り戻した香港では、人々の心をつかめていない。中国が国内の少数民族を含む中華圏の人々をアイデンティティ面から「祖国」に組み込み、「中華民族の偉大な復興」を実現するにはどうすればよいのか。中国が香港で直面している問題は、決して小さな問題ではない。