健康経営で、日本の企業と医療、社会をウェルビーイングに

2023.12.27

少子高齢化や働き方改革の関心の高まりを受け、健康経営が注目されています。健康経営は、経営戦略として企業の従業員の健康を促し、エンゲージメントや生産性向上を目指すものですが、医療費の抑制や社会全体のウェルビーイングには、どのような関連があるのでしょうか?
今回は、臨床心理士・EAPコンサルタントとして、多くの企業・健康保険組合にコンサルティングを行ってきた保健同人フロンティアの宮尾亮子さんにお話を伺いました。

宮尾 亮子 氏

株式会社保健同人フロンティア
価値創造推進部 企画・マーケティング室 室長
(臨床心理士・健康経営アドバイザー)

大学院修了後、臨床心理士として都立病院にて勤務。メンタルヘルス不調や依存症のクライアントに対するカウンセリング、家族への心理教育などに従事した後、予防へのアプローチを志し、2017年、株式会社保健同人社(現:保健同人フロンティア)に入社。EAPコンサルタントとして、多数の企業の組織分析、人事へのコンサルティングなどに従事し、管理職や一般従業員、経営層向けの研修も担当。
その後、事業開発部にて企業向けサービスの企画開発に従事し、健康経営やメンタルヘルスに関わる新規事業やサービス開発を中心に担当。現在は企画・マーケティング室にて戦略立案・実行の統括を担う。

健康保険組合(健保)の現状

健康経営と医療費の抑制を直線的な関係で捉え、取り組みを行っている企業は、実態として多くはありません。これは、医療費を実際に負担する健康保険組合(以下、健保)において、医療費の抑制が重点項目となる一方で、企業側からすると医療費自体は経営への直接的なインパクトが薄いためです。企業にとって健康経営の目標は、「従業員のヘルスリテラシーを向上させ、早期予防・治療につなげること」、「従業員のエンゲージメント・生産性向上」であり、医療費の抑制ではありません。しかし、企業が健康経営で従業員の早期予防・治療を促すことができれば、結果的に、将来的な医療費削減につながる可能性は高まります。
例えば、メタボリックシンドローム予備群を早期に発見する目的をもつ特定健康診査(以下、特定健診)においては、リスクが高い方には保健師や栄養士による特定保健指導※の勧奨をしますが、その面談を受けずに生活習慣改善を行わなかった場合、糖尿病が重症化して、将来的に人工透析が必要となることもあります。人工透析は、身体的な負担が大きく、生活の質も大きく損なわれ、莫大な医療費がかかります。一方、特定保健指導の対象者となった時点でリスクを理解し、生活習慣を改善し、減量するなど、早期から予防に取り組めたなら、重症化には至らず、健康を維持しつつ医療費も削減できる可能性が高まることは想像しやすいと思います。

現状、具体的な病気の発症リスクが下がるといった統計的なエビデンスは、健康経営の取り組みの歴史が浅いことから、まだ存在しませんが、令和3年10月の経済産業省による健康経営の推進に関する報告書では、健康経営によるさまざまな効果が示唆されています。高スコア企業群(健康経営に積極的に取り組んでいる企業)は、低スコア企業群と比較すると、有意に平均年間医療費が下回るという結果が示されており、健康経営と健康状態、企業価値・業績、離職率との関係性を示した上で、健康経営の取り組みによって①組織の活性化、②心理的・生活習慣病リスクの低下、③仕事満足度向上や従業員の会社に対するエンゲージメント向上、といった効果が期待されるとしています*1

今後、病気の発生リスクの抑制などの効果に関しては、計測指標の明確化や、定期的なデータ取得など、評価する仕組みづくりも重要になると思われます。形骸化していたストレスチェックも、改めて健康経営に取り込まれた結果、事業主(企業)がメンタル不調者のケアに真摯に取り組むようになり、うつ症状が重症化する手前で防ぐことができた事例もあり、健康経営に心身の評価指標を取り入れることは、身体的・精神的健康に有効であると言えるでしょう。

※ 特定保健指導:生活習慣病の発症リスクが高く、生活習慣の改善による生活習慣病の予防効果が多く期待できると判定された人に対して行われる、専門スタッフ(保健師、管理栄養士など)による健康支援*2

新聞などで繰り返し報じられているように健保財政は厳しい状況です。健康保険組合連合会によると、全体(1,383組合)の約4割が赤字となっています*3。その要因の1つに、健保は、被保険者※とその家族だけでなく、日本の65歳以上の高齢者の医療制度も支えるべく拠出金を支払っているのですが、その拠出金が高齢化によって増加していることがあげられます。この赤字財政に対応するために、保険料を引き上げざるをえない健保が増えている状況です。

厚生労働省は、医療費抑制を目的に、2018年度から健保の特定健診や特定保健指導の実施率等により、後期高齢者支援金について一定程度の加算、あるいは減算を行う制度を導入しました。これは特定健診の実施率等が基準値よりも低い場合、拠出金が増加するもので、事業主・被保険者による保険料増加につながるため、事業主が健保とともに、予防的措置を取るインセンティブとなり、今般、健保ではなく事業主が被保険者に直接メールを送付し特定健診の受診を促したり、特定保健指導の厳密な勧奨が行われるようになっています。

※ 被保険者:保険料を支払って健康保険に加入し、病気やけがをしたときなどに必要な給付を受けることができる人のこと。当記事においては、健康保険に加入している企業の役員や従業員が被保険者に該当する。

拠出金のような支出以外に、健保が医療費を抑制するために主体的にとることができる措置として、予防的措置を促す保健事業というものがあります。ただ、現状の健保では、積極的な保健事業が推進しにくい原因が2つあります。
1つは、健保自体が小さな組織であり、人手不足や属人化のため、効果的な保健事業を実施するノウハウが蓄積されていないことです。このような課題を受け、長年のデータと他健保の実績をもとにPDCAを回すノウハウを保有するサービス提供会社に保健事業をアウトソースするニーズが高まっています。
もう1つの原因は、健保と事業主の連携不足です。先ほどあげた特定健診を促す後期高齢者拠出金の加算・減算制度のように事業主への負担増加のリスクが明らかなケースは、事業主側にインセンティブが働きますが、その他の分野における医療費の抑制には、被保険者一人ひとりの行動変容や意識改革、ヘルスリテラシー向上への取り組みなど、健保と事業主が連携する必要があります。しかし、組織としての目標や目的が異なるため、現状、なかなか連携が進みません。

当社は、健保に対して専門家が医療費や健診結果等を分析し、医療費の抑制に向けたPDCAを回すサービス等を提供するとともに、長年、多くのお客様の悩みに寄り添ってきた経験をもって事業主に対しても働きかけて双方をつなぎ、課題を解決するためのサポートを実施しています。

健保と企業の連携を進めるには?

健保と企業が連携する上での課題は、組織間で健康情報の共有が簡単にできないことです。健保は、健康診断など被保険者の健康情報を保有していますが、これらの情報は要配慮個人情報に該当するため、被保険者の同意なく企業と共有することはできません。連携ができている事業主と健保は、定期的に情報共有の場を設定し、データそのものではなく、分析結果や結果から導き出される課題、課題に対する施策などをまとめたものを共有し協議しています。長年、健保と企業の連携をサポートさせていただいた当社として、連携を加速するには、データの分析結果をもとに課題を言語化・共有し、単に共有するだけでなく、実行施策の提案、施策の進捗管理、効果測定まで徹底的に検証するPDCAを回していくことが重要と考えています。

まずは共通言語をもって同じ取り組みを進めることが大切です。たとえば、ある健保・企業においては、特定保健指導の実施率を上げるために企業側の理解を仰ぎ、就業時間内に実施することや、会社の会議室での面談設定を許可していただきました。そして、人事だけでなく所属長(管理職)にも理解していただくために、リーフレットによる周知を行いました。その結果、職制を通じた勧奨にもつながり、実施率が少しずつ上がるという結果が出ています。なんとなく距離のある健保からの声掛けよりも、身近な人事や管理職を通した勧奨が功を奏した例と言えます。このように、一足飛びに効果検証とまでいかなくても、同じ課題をもって、企業側の理解を仰ぎ、協力を求めながら取り組むことが、大事な一歩だと考えます。

当社の健康経営支援サービスやEAP(Employee Assistance Program;従業員支援プログラム)事業を通じて実感していることは、健康経営に経営側がしっかり関わっているかどうかが一番の鍵ということです。経営陣が自社の従業員の健康課題を理解して積極的に関わっている企業は、健康経営が浸透・継続し、成果が出ています。この継続が非常に大事です。例え積極的に1年間取り組んだとしても、1年で結果を出すことは難しく、長期的に取り組んで初めて成果につながるのです。そのような意味でも、経営陣がしっかり課題感をもって経営戦略の1つとして取り組んでいる企業は、結果につながっていると思います。

また、健保による保健事業と同様に、施策に関するデータを管理し、その効果検証を測っているところはPDCAをうまく回せています。健康経営に前向きに取り組む企業はストレスチェックにおける高ストレス者の割合が低いという結果が出ており、これは同調査結果を分析し、対策を講じている企業が一定数存在していることが要因だと推測されます。

出典:保健同人フロンティア HoPEサーベイ調査(健康経営推進企業, N=295,901)
※ 健康経営推進企業:健康経営銘柄もしくは健康経営優良法人(中小企業含む)を取得している企業

ヘルスリテラシーの重要性

聖路加国際大学大学院の中山和弘教授のヘルスリテラシーのお考えが大変参考になると思います(ヘルスリテラシーに関する詳細は、こちら:ヘルスリテラシーとは:健康・医療情報を活用し、豊かで幸せな生活を実現する力 | 陽だまり | 未来に、ウェルネスの発想を。 - 三井物産 (mitsui.com) をご参照ください)。また、当社のユーザー調査では、情報を参照する際、「最新性」、「信頼性」、「権威性」、「個別化」の4点に留意していることがわかりました。エビデンスがあり、最新で正しい情報であることは大前提として、人によって状況・状態や病歴等は当然違うので、情報の「個別化」は、重要な要素となります。個別化された自身に合った情報を得るためには、かかりつけ医をもち、専門家による相談サービスを利用するなどの選択を行うリテラシーが、情報収集における要素として必要です。
 
当社は長年、電話による健康相談サービスを提供しており、さまざまな健康相談に対応していますが、クライアント一人ひとりの置かれている状況や困っていることを丁寧にお伺いし、伝わりやすく丁寧なお声掛けを意識して対応しています。また、当社は全国に約160名の専門職を抱えていますが、社内での事例共有やスーパービジョン※を通して、常に研鑽を重ねています。

※ スーパービジョン:最良のサービスを利用者に提供することを目指し、医療やカウンセリングなどの実習現場で用いられている指導方法。指導するスーパーバイザー(管理者や指導者)が、養成されるべきスーパーバイジー(新入社員や実習生などサポートが必要な立場にいるもの)と肯定的に関わりながら、サポートや指導を行い、適切な学びと成長を促す。

明日から私たちができること

医療制度をサステナブルなものにするには、無駄な受診を減らすこと、医療費を最適化することが重要です。これを実現するポイントは、非常に当たり前のことですが、以下の3点になります。

①予防可能な病気にかからないよう健康を維持する。
②心身に不調があれば、重症化する前に早く病院に行く。
③病気を治療した後は、再発を防止する。

上記3つのポイントは、企業におけるメンタルヘルス予防においては1次予防・2次予防・3次予防と言われます。例えば、厚生労働省の調査によると、過労による精神障害は、令和元年度以降、増加傾向にあり、令和4年度は710件*4でした。一生懸命働いている人ほど、セルフケアに意識が向きづらく、気づかないうちに心身の負担が大きくなってしまうものです。「病気はいつでもかかるもの」という認識のもと、元気なうちから正しい健康情報に触れることができる仕組みを作ることが重要です。こうした仕組み作りには、医療費の課題に直結する健保と、日々従業員と接し、従業員のパフォーマンス向上に努める事業主がしっかりタッグを組む必要があることは、間違いありません。

また、個人においても、やるべきことは上記①~③となりますが、人によってそれぞれ健康状態、価値観やライフスタイルは異なるため、ベースとなるリテラシーを身につけ、予防行動を習慣化し、健康に関して不安を感じた時に、個別に相談できる窓口、専門職、かかりつけ医を確保しておくことが重要になります。

私たち保健同人フロンティアとして目指している社会は、テクノロジーと人の力をうまく使いながら、健康を意識しなくても、人々が普通に暮らしているだけで、会社に勤めているだけで、自然と健康にウェルビーイングな状態に向かっていくような社会です。私たちは、そのためのサポーターとして、企業や健保、個人に対して、社会インフラのように会社生活やライフスタイルの一部に組み込まれるさまざまな仕掛けを提供できる存在になりたいと考えています。

日本には少子化による人手不足という大きな社会課題があり、このような状況でもGDPを上げ、経済を活性化させていくには、企業が生産性を高め元気になる必要があります。従業員が生き生きと働き続けることができる状態をどの企業も実現できるよう私たちは手助けをしたいと考えています。

現在は、SNSなどを通じてさまざまな健康情報が発信され、健康関連商品の情報もあふれており、自分で自由に好きなものを選択することができます。一方、働いている人は、平日の活動しているほとんどの時間を仕事に費やしているといっても過言ではありません。そのため、勤務する会社からの情報や、職域のコミュニティの中で提供される情報の影響力は大きく、たとえ興味がなくても会社から推奨されたからやってみようと思えるような仕組みはすでになじみ深く、まだ工夫の余地がある領域です。例えば、コロナのワクチン接種も職域で実施し、接種率が高まりました。これらは、平日の長い時間を過ごす職域が有効に活用できた良い事例であり、日本の企業にとって取り入れやすい仕組みです。

健康について一人ひとりの知識や判断に任せるだけではなく、健康経営という名のもと、働く場所で健康に関する情報発信を継続し、会社、従業員、さらにその家族が元気になることが、ウェルビーイングな社会を実現することの一歩になると思います。

*1 経済産業省 ヘルスケア産業課“健康経営の推進について” p.41 (参照2023-11-16)
*2 “特定健診・特定保健指導について”厚生労働省ウェブサイト.(参照2023-11-16)
*3 健保連プレスリリース(参照2023-11-16)
*4 令和5年版 過労死等防止対策白書 p.5(参照2023-11-16)