岩本先生と考える人的資本経営 ―従業員エンゲージメントの向上は、企業に何をもたらすのか

2023.07.25

昨今、人的資本経営における従業員エンゲージメントの重要性が注目され、その向上に取り組む企業が増加しています。エンゲージメントの向上は、企業の成長にどのような影響をもたらすのでしょうか。そして、そのために求められる人材マネジメントとはどのようなものなのでしょうか?
人的資本の国際規格である ISO 30414のリードコンサルタント/アセッサー認証取得者であり、戦略コンサルティング業界の新領域を開拓されている岩本先生に教えていただきました。

岩本 隆 特任教授

慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科特任教授

東京大学工学部金属工学科卒業。カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)大学院工学・応用科学研究科材料学・材料工学専攻にてPh.D.を取得。日本モトローラ、日本ルーセント・テクノロジー、ノキア・ジャパン、ドリームインキュベータを経て、2012年6月より2022年3月まで慶應義塾大学大学院経営管理研究科特任教授。2018年9月より2023年3月まで山形大学学術研究院産学連携教授。2022年12月より現職。

理想的な企業と従業員の関係は、「婚約」にあり?

人的資本経営とは、人材を有限な「資源」ではなく、投資すべき「資本」と捉えて企業価値を高めていく経営のことです。「経営の神様」ともいわれる松下幸之助が「企業は人なり」という言葉を残しているように、この概念自体は古くからありました。
人的資本経営が今日のように注目されるようになったきっかけの一つが、2017年より始動した経済産業省による「働き方改革2.0」です。生産性向上や企業の競争力を高める改革として、社員の働き方に焦点を当てる取り組みですね。その上で、人事の情報システムを効率化し、パフォーマンスを高める「HRテクノロジー」の活用に注目が高まりました。
HRテクノロジーのツールはグローバルでは「Human Capital Management (HCM)application」といわれ、2010年代から伸び続けている市場ですが、日本でもその動きが活発化していきました。「人的資本経営アプリ」と言い換えると捉えやすいと思いますが、今や人材活用に資するさまざまなサービスやソリューションが台頭しています。
このように、グローバルでは「Human Capital Management」としてすでにあった概念を、2020年に、より捉えやすいよう漢字で表現したことが「人的資本経営」という言葉の原点です。これが、いわゆるバズワード化したことで、今日の注目につながっているといえます。

そうですね。人的資本開示の背景には、有形資産を使った産業が減少しているという産業構造の変化があります。特にリーマンショック以後、「非財務」の情報も開示するべきだという意見が投資家の間で広がりました。その中には無形資産である人的資本も含まれます。投資判断を行うにあたり、「企業は人なり」の根拠を見える形で示してくださいね、ということです。その点では、人材領域をデータで示す必要性が高まっていることも、HRテクノロジー市場の活発化に影響しているといえます。
そもそもこういった情報開示は、株価を上げるという経営的なメリットにつながっています。例えば、既存市場がない新規事業は投資判断が難しいですが、人材力を開示することで事業創造力が企業に備わっていることをアピールできます。新規事業につながるイノベーティブなアイデア数をKPIに設定し、創出したアイデア数を開示するなど、各社なりの方法で事業創造力を表現する企業が多くみられています。

従業員のエンゲージメントと業績が相関関係にあることは、㈱リンクアンドモチベーションとの研究で私もレポートを公表していますが、世界的にも多くの調査がなされており、説得力のあるエビデンスをもって浸透してきています。
この「エンゲージメント」という言葉は「婚約」という意味でも使われますが、企業と従業員との関係性においても、まさに「婚約」の概念を当てはめることができます。まず、対等であること。次に、ワクワクできる関係性であること。そして、互いにコミットしていることです。企業は従業員が生き生き働くことができる環境づくりに、従業員は企業の業績向上にそれぞれコミットする。そして、ワクワクしながら働くことができれば、おのずと業績は上がっていきますよね。
このように、人的資本経営に取り組むにあたっては、従業員一人ひとりの働きがいを高める活躍・成長にフォーカスしていくことが重要であるといえます。

見える化したデータから、いかにPDCAを回していくか

日本では経営全般において体系化がなされてこなかった歴史があります。そのため、経営手法や概念の多くが海外から取り入れられてきたものの、日本の企業風土に沿わず、頓挫することがほとんどでした。例えば1990年代にアメリカから輸入された成果主義は、年功序列で働いてきた人々からすると非常にドライなものに映り、全ての従業員を納得させるには困難が伴いました。今でさえ、年功序列の人事制度を変えることに多くの企業が苦労している印象があります。しかし、海外に目を向けてみると年功序列は年齢による「差別」とみなされます。私が外資系企業に勤務していたのは20数年前ですが、活躍に応じて報酬を支払うプロスポーツ型の人的資本経営が当たり前でした。
社員を、何をもって評価するのか。一人ひとりの活躍に正しく光を当て、さらなる活躍を促していく評価軸が、これからの人材マネジメントに不可欠となります。

一つは、採用や人材育成、人材配置をスキルベースで行うことです。その施策として、社員のスキルをデータ化した「スキルマップ」を作成する会社が増えています。個々のスキルを棚卸しすることで、欠けている部分が明確になります。これまで画一的だった人材教育から、それぞれの「スキルマップ」に沿ったラーニングコンテンツを提供することで、より自主性や成長性の向上が期待されます。
また、企業は自社の人材にどのようなスキルが不足しているかを把握できるため、それをもとにラーニングコンテンツを充実させたり、そこに特化した人材を採用したりと、効率化を図ることができます。また、社員のスキルがオープンになることで、社内のノウハウ共有も活発になります。年齢や経歴に関係なく、スキルを持つ人から学ぶプラットフォームがあることは、一人ひとりが活躍する機会の創出につながります。

また、直近で急速に伸びているのは「タレントマーケットプレイス」という社内異動を促進するクラウドサービスです。キャリアの挑戦機会を創出して社員の働きがいを高めることが狙いですが、面白いのは各組織の活性化にもつながっていることです。優秀な人材を部内に引き入れるためには、各部門が魅力をアピールしなければいけません。部門長などのトップ層がメンバーのエンゲージメントを高める取り組みを主体的に行うきっかけにもなっています。

現状を測定するだけのツールで終わってしまっては、当然ですが何の解決にも至りません。重要なのはデータから企業に合ったPDCAを回していくことです。例えばエンゲージメントサーベイ※を実施すると、企業における課題がデータ化されます。重要であるかどうかという軸と、達成できているかどうかの軸で見たときに、解決していくべきは「重要であるのに達成できていないこと」です。そのように優先順位の高いアクションを見極めて取り組みながら、継続してサーベイを行うことで、どのアクションがより効果的であるかが研ぎ澄まされていきます。

※ エンゲージメントサーベイ : 社員の視点から見た「会社とのつながりの強さ」を数値化することで組織の課題を可視化し、具体的な施策立案につなげるための診断ツール

「企業は人なり」の本当の意味を考えてみる

エンゲージメントとウェルビーイングの相関については、イギリスの研究グループである「Engage For Success」がかねてより研究しており、その好循環を示す論文も発表されています。この相関関係は、コロナ禍を契機に世界中へ浸透しました。
ウェルビーイングとは非常に広義の概念ですが、その構成には5つの要素が関わっているとギャラップ社※は明らかにしています。その中で、最も人の幸福感に寄与するとされたのが「キャリアウェルビーイング」でした。キャリア、つまり働くことにおける継続的なプロセスは、一日の多くの時間、ひいては一生の大半を費やす活動です。だからこそ、社員が仕事を通して人生を豊かにできるような経営を行うことが重要なのです。
裏を返せば、ウェルビーイングの低い企業からは人は離れていくともいえます。社内にさまざまな成長機会があること、ロールモデルが多くいること、またリスキリングや副業へのサポートがあることなど、将来の充実したキャリアがイメージできるような魅力ある企業文化が所属意識を醸成し、企業の成長につながっていくのです。

※ ギャラップ社 : アメリカに本社を置く世論調査企業

私が企業の方々にお伝えしているのは、「企業は人なり」という言葉の意味を、もう一度考え直してはいかがでしょうか、ということです。多くの企業は「雇用を守る」という意味で捉えている傾向がありますが、はたしてそれで十分でしょうか。多様な人材が活躍できる場所や仕組みを整備していくことに加えて、トップ層には社員のやる気を引き出し成長につなげる、ピープルマネジメントのスキルが求められています。
一人ひとりの活躍によって企業が成長していく――とてもシンプルでありながら、人的資本経営の本質であるその原点に立ち返ることが、迷った際の道標になると考えています。