老化細胞除去ワクチンがもたらす未来ー南野徹先生が解説
2023.08.04
コロナ禍を経て健康への関心が高まる中、超高齢社会を迎えた日本では、加齢に関連する疾患の新たな治療法や、健康寿命を延ばすための取り組みに注目が集まっています。
みなさんは、老化研究において、加齢関連疾患の新たな治療法となる可能性を秘めている「老化細胞除去ワクチン」が開発されたことをご存知でしょうか? 一体どのような効果があり、超高齢社会にどのような未来をもたらすことができるのか――研究を率いた南野先生に、ワクチンの効果や今後の展望を教えていただきました。
南野 徹 教授
順天堂大学大学院医学研究科 循環器内科教授
1989年に千葉大学医学部を卒業後、1994年より東京大学医学部第三内科にて「エンドセリンと動脈硬化」についての研究で学位を取得。1997年にハーバード大学へ留学し、留学時から現在に至るまで老化制御学を研究している。2001年より新潟大学大学院医歯学総合研究科循環器内科教授として抗老化治療の研究開発を進め、2020年より現職にて、本人が代表を務める研究グループが加齢関連疾患の治療応用を可能にする老化細胞除去ワクチンの開発に成功。2021年12月に『Nature Aging誌』に発表された。
人体の老化には、細胞の老化が関係している?
日本は世界一の長寿国でもありますが、老化研究はどのように発展してきたのでしょうか?
私たちの研究テーマである「細胞老化仮説」、すなわち細胞の老化が人体の老化に関与しているとする説は、1990年代にはすでに発表されており、研究がなされてきました。しかし、細胞老化と身体老化の関連を科学的に実証し、さらにそれが社会的に認知されるまでには、実に20年以上かかっています。老化細胞を除去することで形質に影響があることが認められ、老化細胞を標的にした治療ができるかもしれないという期待が、ここ数十年の中で出てきました。また、超高齢社会への危機感や、世界的にこの領域の研究が加熱してきたことで、政府による投資も強化され、活発な研究がなされるようになってきました。
医学界における「研究」には、人を対象に行う「臨床研究」と、動物などを用いて行う「基礎研究」があります。もともと、日本の老化研究では臨床研究が先行しており、基礎的な老化研究を行う研究者が増えてきたのは近年のことです。ですから、基礎研究においては、日本の研究が世界に先行していたわけではありません。
「老化細胞」という言葉が出てきましたが、これが体内に蓄積することで人体にどのような影響があるのでしょうか?
老化細胞は、染色体が何らかのダメージを受けて傷がついたことで分裂を停止した細胞です。この分裂停止は、ガンを防ぐためのプログラムとして、もともと体に備わっている機能です。
本来、分裂が止まった老化細胞は白血球が食べてくれますが、何らかの原因で食べられずに残ってしまうことがあります。その老化細胞が血管に集積すると動脈硬化に、お腹に集積すると糖尿病になりやすくなる、といった具合に、老化細胞は加齢に伴って発症する疾患の引き金になります。
これを改善する治療法として、老化細胞を選択的に除去する薬剤の研究開発も進められていますが、除去すべきでない細胞に予期せず作用してしまうリスクが常に付きまといます。だからこそ、薬剤ではなく、標的となる老化細胞だけに確実に作用する抗体をつくることができる「ワクチン」が必要だと考えたことが、老化細胞除去ワクチンの開発につながっています。
「ワクチン」という、新たな解決策
老化細胞除去ワクチンのメカニズムについて、わかりやすく教えてください。
細胞は老化することで性質が変わります。若い細胞と比較してみると、老化細胞に特徴的なマーカーである「老化抗原」が細胞表面に出ていることがわかりました。私たちはこの「老化抗原」の詳細を解明するところから始めました。
老化した血管内皮細胞の遺伝子情報を解析した結果、老化抗原は GPNMB※という分子であることを突き止めました。このGPNMBを標的として攻撃する抗体を生み出すワクチンが、老化細胞除去ワクチンです。
※ GPNMB(Glycoprotein nonmetastatic melanoma protein B):細胞膜の表面に存在する膜貫通型糖タンパク質で、炎症・がんの浸潤および転移・細胞分化、組織再生など様々な生体内の反応に関与することがわかってきている
発見した老化抗原への攻撃は、全ての老化細胞に有用なのでしょうか?
老化細胞には、さまざまな種類があり、食事や喫煙などの生活習慣やストレスの状態によって、人体のどこに、どのような種類の老化細胞が蓄積するかは異なるということもわかってきました。また、研究を進める中で同定したマーカーであるGPNMBは、血管内の細胞に特徴的なものであり、臓器ごとに異なる老化抗原を持つ老化細胞が存在することもわかってきました。臓器ごとに異なる老化細胞の、それぞれの特徴を研究し尽くすには骨が折れますが、同研究を行う研究者によるデータ共有プラットフォームを活用しながら、さまざまなパターンを解明していこうと思っています。
ただ、老化細胞を完全に除去しない方が良いという見方もあります。体全体のネットワークで見ると、まだまだ老化細胞の役割は未知な部分があり、一気に除去することで恒常性が保たれなくなる恐れがあるからです。そうした点もふまえて治療効果を上げていくためは、効果的かつ安全なアプローチを慎重に模索し、臨床におけるエビデンスを積み上げていく必要があります。治験では、画像診断などで老化細胞が集積していることが明確になった対象者の方々にご協力いただき、実用化に向けた取り組みを続けていきたいと考えています。
実用化への見通しや、老化研究における今後の展望を教えてください。
老化細胞除去ワクチンは、老化現象に対する新しい角度からの挑戦です。実用化されれば、加齢関連疾患の新たな治療につながる可能性が高いほか、アルツハイマー型認知症のような、未だ有用な治療法が見つかっていない疾患に対しても解決策を提示することができると考えています。実際に論文発表後の反響は大きく、複数のベンチャーキャピタルからオファーを受けているほか、患者さんから「いつ実用化されるのか」と連絡をいただくなど、大きな期待が寄せられていることを実感しています。
しかし、ワクチンや薬剤を一般的な保険診療で用いるには、治療薬として、その有効性を治験で示し、PMDA※へ申請し、治療薬として承認される必要があります。医学会においてどれほど革新的な発見であっても、政府のバックアップや製薬企業などによる開発投資がなければ社会実装することはできないのです。そうしたジレンマに歯痒さを抱えている研究者は少なくありません。
現在、私たちの研究チーム以外にも老化細胞における興味深い研究が多数なされており、その間口は広がっています。そうした潮流の社会的な認知に伴って、今後さらにグローバルな規模で投資が動いていくことを期待しています。
※ PMDA(独立行政法人 医薬品医療機器総合機構):医薬品、医療機器や再生医療等製品に関する承認審査、安全対策、健康被害救済の役割を担う公的機関
医療がもたらす長い人生をどう生きていくか?
人生100年時代、医療技術の進歩によって得られた寿命を、どのように生きていくべきだと思われますか?
私たちの研究で最大寿命を延ばすことはできませんが、加齢関連疾患へのアプローチによって健康寿命を延ばすことはできると考えています。健康に過ごせる時間が延びるということは、やりたいことに対してアクティブに取り組める時間が延びるということです。その時間を活き活きしたものにするために、没頭できる「生きがい」があることは大切ですよね。
そして、ウェルビーイング(well-being)な生き方に重要なのは、社会とのつながりを持つことだと私は考えています。私は医師ですから、やはり自身の働きが患者さんの役に立っているという想いが人生のウェルビーイングにつながっていると感じます。現在、老化細胞除去ワクチンそのものにスポットライトが当たっていますが、実際には開発に至る前段階の、細胞の老化と人体の老化における相関を科学的根拠を持って証明し、社会的認知を得るまでの20年以上にわたる過程の方がずっと大変でした。その間、諦めずに地道に続けることができたのは「この研究の成果で必ず社会に貢献できる」という確信に近い想いを持ち続けられたこと、そして、この想いが原動力となっていたからだと思います。
こうした社会貢献のような仰々しいものでなくても、例えば周囲の人々とのコミュニケーションも重要な社会との接点です。ご自身の生き方にプラスとなるような社会とのつながりを大事にしてほしいと思います。
最後に、記事を読まれているビジネスパーソンの皆さんにメッセージをお願いします。
日々、ビジネスパーソンの方々を診察していて思うのは、現代人は仕事に命を削りすぎているということです。仕事が忙しいあまり、入院を後回しにするビジネスパーソンの患者さんがいるのです。ご自身の健康や命よりも優先すべき仕事や予定など、そうそうないのではないでしょうか?あなたの人生の代わりになる人は、いないのです。
心身ともに健康に生きることが、幸せに生きることにつながっていきます。そして、幸せを感じている人の方が長生きすることも間違いないと思っています。目の前の物事に躍起になって、大切なものの優先順位が逆転していないでしょうか?忙しい日々の中でも心身の健康、そしてウェルビーイングを大切にしながら過ごしてほしいと思います。