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大室 敦司

ゲスタンプ・ホットスタンピング・ジャパン(出向)
副社長

世界最大手の自動車部品メーカー、ゲスタンプ・オートモシオン社(以下ゲスタンプ)。最先端の技術で世界中のクルマ作りを革新する同社の日本初の工場を、大室敦司のあらゆる経験が支えている。


一人五役、十役で工場の設立を進める

一人五役、十役で工場の設立を進める

私はいまゲスタンプ・ホットスタンピング・ジャパンに出向し、副社長を務めています。工場の立ち上げから量産までもっていくことが使命で、会社の決算責任を負っている。工場の操業、品質管理、安全・衛生、人事、総務、財務・経理。一通りすべて責任を負い、コーディネートする立場です。まあ、要するに全部首を突っ込んでるってことです(笑)。

「日本工場の立ち上げ支援」と「日本メーカー向けの営業支援」が役割のはずだったんですが、来てみたら「支援」なんてとんでもない。まさに「当事者」じゃないかということで、一気にエンジンがかかりました。2017年3月からの出向ですが、最初は社員自体が私一人ですから。一人二役や三役ではききません。一人五役、十役という感覚でやっていました。

土地の基礎工事が進む一方で、並行して設計を走らせる。難航するサプライヤー探しの解決に頭を悩ませながら、夜には採用のための面接を次々と進める。立ち止まっている時間はない。そんな毎日です。同時進行する案件をすべて追いかけながら進捗管理していきました。

夏までにもう二人来てくれて多少は役割分担できるようになりましたが、それでも今度は、採用したスタッフを中国のゲスタンプ工場に派遣する研修を組んだり。新しい仕事が後から後から生まれて、常に忙しかったですね。

2018年10月に開所式を迎えた時は、「ようやくここまで来たか」という思いでした。結局、工場の設計からの完成まで13ヶ月でやりきりました。非常に厳しいスケジュールでしたが実現できたのは、タイで工場設立を経験していたのが大きいように思います。その意味では、自分が今まで経験してきたすべてが活きていますね。

三井物産がゲスタンプに出資参画して、その上での日本工場設立ですから。何をしてくれるんだというゲスタンプ側の期待も当然大きい。そこにアサインされたのは、いわば、「白羽の矢が立った」んだと勝手に解釈しています。お前の今までの経験を全部使って、必ず成功させろよと。「白羽の矢が立った」、別名、「無茶振り」とも言いますが(笑)。

冗談はさておき、一方で、会社や三重県・松阪市の強いサポートを感じています。三井物産グループのバックアップはもちろん、県や市が奨励制度などで支えてくださっているのは本当に大きい。外国企業の初の工場ですから、困難があって当然です。何か取引しようにも、「あなた誰?」ってところから始まるわけですから。そこを有形無形で支えていただき、本当に助かっています。

結果的に私が目立つ立場になっていますが、さまざまな形でのチームワークで進めている仕事です。チームの期待に応えるためにも、やはり、何としてもいい結果を出したいですね。

「何とかする」姿勢を育んだ、イラン駐在時代

自分のこれまでの仕事を振り返ってみると、根っこにあるのはとにかく「何とかしなきゃ」という気持ちのように思います。時間がない、何とかしなきゃ。サプライヤーが見つからない、何とかしなきゃ。トラブルが起きた、何とかしなきゃ。

仕事がすべてスムーズにいくことなんて、ないですよね。想定外の事態はあって当然なので、とにかくその状況の中で何とかする。その「何とかする」マインドが身についたのは、イラン駐在時代だったように思います。

1992年11月着任でしたが、実は夏にはもう行くことが決まっていました。ビザの発行等に時間がかかるため、決定から着任までに準備期間があったんです。ところが、この決定から着任までの間に急激にビジネス環境が変わり、やるつもりだった仕事がなくなってしまいました。

着任したら、することがない。「話が違う!」という状況ですが、どうしようもない。結果的に、自分でゼロからイランで仕事をつくらなければならなくなりました。

当時のイランは、たとえば電話等のインフラひとつとっても未整備な部分がありましたから。ここでつまずくか!という想定外の連続でね。かなり苦労しました。商習慣も驚くほど違いますし。イランの鉄鋼を中国に売ったりしましたが、本当に「揉まれ」ましたね。商社マンとして、どんな状況でもとにかく「何とかする」という姿勢は、その頃身についたかなと思います。

ただ面白いと思うのは、よくよく考えてみると、十代の頃からいつも「何とかしよう」って思っていた気もするんです。

70年代、札幌オリンピックの頃ですね、私は父の転勤先でスキーを覚えまして。もう、スキーがしたくてしたくてしょうがない。そこで高校に入ると同時に冬休み・春休みはすべて使い、雪小屋で住み込みのアルバイトをはじめました。寝るところとご飯だけ確保して、バイトしながら休憩時間はひたすらスキー。16歳から結婚するまで、正月3が日でも家にいたことはありませんでした。むしろ、雪小屋としては正月はかきいれ時でしたから。

これも要するに、「自分で何とかせい」ということですよね。やりたいことがある。それをやるために、どうするの?と。それは常に自分で考えないといけない。そして行動しないといけない。そういう性分は昔からあったのかな、と。面白いもんですね。

スタッフが喜ぶ姿を見たい

スタッフが喜ぶ姿を見たい

これからのことでいうと、まず足もとの話として、松阪工場の量産の安定化はしっかりやりたいですね。あと、日本というこれだけコストの高い国でものづくりをするわけですから。生産性や品質をベンチマーク化したいという思いがあります。ものづくりということに関しては、やはり日本でやる以上、期するものもあります。ベンチマーク化のことは、出向が決まった時からずっと考えています。

個人として実現したいこと?いやあ、この年になるとね、自分のことよりスタッフが喜んでるのを見るのがうれしいんですよ。だって、採用も自分でやったわけですから。

安心であれ、達成感であれ、どんな形でもいいからスタッフが喜んでいる顔を見たい。心からそう思っています。それができていれば、事業も必然的にうまくいくんじゃないでしょうか。何だろう、そう、子育てに通じるものがあるかもしれませんね。スタッフも、事業そのものも、成長できるよう支えたい。まだまだやることは多そうです。

2019年2月掲載