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株式会社三井物産戦略研究所

「高所得国」への移行を目指すタイ-政情不安と中国の影響力拡大-

2016年12月9日


三井物産戦略研究所
アジア・中国・大洋州室
海老根知子


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ASEANにおけるタイは、日本企業の「タイ・プラス・ワン」1戦略により、周辺国CLMV(カンボジア、ラオス、ミャンマー、ベトナム)と共に形成されるメコン地域の巨大なサプライチェーンの中心となる国である。日本企業進出の歴史は古く、1960年にタイ政府が自動車産業を投資奨励対象としたことから、日系の自動車各社と多くの部品メーカーが進出し、今では年間300万台の生産能力を持つ生産拠点となった。ASEANの中でこれほど自動車をはじめ製造業の裾野産業が広がっている国はほかになく、ASEANの代表的な製造拠点である。
しかし、近年のタイ経済は、インラック前政権下でファースト・カー制度(1台目の自動車購入の税還付)、全国一律日額300バーツ2への最低賃金引き上げ等、次々と景気刺激策を打ち出してきたものの、コメをはじめとする一次産品の国際価格の下落や干ばつ、最大の輸出先である中国の経済減速を直接的な要因として、低迷が続いている(図表1)。米格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは、2016年、その構造的な要因が「競争力の低下」と「政情不安」にあると指摘した。タイは政治、経済両面において困難な局面に立たされている。

タイの抱える課題と軍事政権の政策

プラユット暫定首相は、前政権のコメ担保融資制度に伴う多額な損失等解決すべき問題が山積するなか、2015年8月の内閣改造で、タクシン政権時代の経済政策を率いたソムキット副首相を経済担当に据え、景気回復の鍵を民間消費の回復と輸出の拡大とし、「経済社会の底上げ」と「国際競争力の強化」を軸とした経済政策に本格的に取り組み始めた(図表2)。

(1)2026年の高所得国入りと景気刺激策

2016年7月に国家経済社会開発委員会(NESDB)が、『第12次国家経済社会開発計画(2017~2021年)』を発表し、実質GDP成長率を年平均5~6%、1人当たり所得を現在の年6,000ドルから2036年に13,000ドルに引き上げる目標を掲げ(図表3)、2026年までに世界銀行が定義する「高所得国3」への移行を目指す。なお、中所得国に属するタイの中でもバンコクおよびその近郊6県は2013年に1人当たり所得が10,000ドルを超えているのに対し、これ以外の地域は3,121ドルと地方との格差が大きい。政府は、長引く景気低迷から脱するべく、景気刺激政策としてコメ価格保証制度や農家への給付金、中小企業への低利信用供与等を打ち出し、低所得層の農家や中小企業を支援し、経済を底上げする。軍事政権にとり、タクシン派の支持基盤である農村部を支援することは、社会を安定させると同時に選挙対策としても必要不可欠である。

(2)国際競争力の強化と格差是正

近年、労働力不足が常態化しており、人件費が上昇4している。また、ベトナム等周辺国経済が急速に成長しており、タイの競争力は相対的に低下しつつある。タイは、中所得国の罠5に陥るリスクを回避し、高所得国への移行を目指すために、労働集約型産業からハイテク産業や付加価値の高い産業への構造改革を推進する。
2015年9月、産業高度化を進めるため、「産業クラスター政策」を打ち出した。政府は、10の優先産業分野(図表4)とその育成を進める地域を特定し、集中的に競争力強化を推進する。特に人材育成や研究開発への投資を重要視し、優遇措置の要件としている。また、2016年9月には、「デジタル経済社会省」を新設し、スマートシティ開発、ソフトウエア産業支援等、デジタルエコノミー政策に計2億8千万バーツを投じるほか、フィンテックの拡大に向けた法整備にも取り組んでいる。
さらに、都市と地方の経済格差是正と労働力不足の解消を目的とし、国境の経済特区(SEZ)の開発を進めている。国境SEZは、地方の振興と同時に、「タイ・プラス・ワン」戦略によりCLM諸国との産業連携を促し、メコン地域全体の底上げを狙うものでもある。産業高度化と地方の産業振興は、プラユット暫定政権が進める経済対策の両輪である。

(3)ASEAN地域のハブ~地域統括拠点を誘致

ヒト・モノ・カネの交流の自由化を後押しするASEAN共同体を背景として、タイは、製造業の集積地としてのみならず、貿易や金融、人材育成等の業務も加えた外資企業の包括的な統括拠点の誘致のため、「国際地域統括本部(IHQ)」と「国際貿易センター(ITC)」を2015年1月に導入した。既に多くの地域統括拠点が設置されているシンガポールのように、ASEANのハブを目指す。タイはシンガポールに比べ、人件費をはじめとしたコストが安く、製造業の集積があることから、メーカーを中心に機能を分けて、タイにも拠点を設ける「シンガポール・プラス・ワン」の動きも見られる。

王位継承問題と政情不安

しかし、プラユット暫定政権が進める改革の前途は多難である。プラユット暫定政権は、2013年末からタクシン派と反タクシン派の対立が激化し、インラック前首相が弾劾され失職した後、2014年5月22日のクーデターを経て、タクシン派を事実上追放して成立した軍事政権である。2016年8月には、軍が実質5年間は実権を握るという新憲法草案が国民投票で承認され、民主化のロードマップに則り、2017年末の総選挙を経て、民政移管が行われる見込みであるが、2016年10月13日、70年間君臨し、国民からの絶大な信頼を得るプミポン国王が崩御したことでそのシナリオへの影響が懸念されている。
新国王には、プミポン国王が王位継承者として指名したワチラロンコン皇太子が12月に即位した。しかし、即位する前は新国王をシリキット王妃や警察、タクシン派が支援する一方で、国民の中で人気の高いシリントーン王女6を後継者に推していたプレーム枢密院議長をはじめとする陸軍勢力との対立があり、王室、軍、国民の中で複雑に分裂していた。これまでに政治的対立の調停役を担ってきたプミポン国王は、軍事政権を正当化する後ろ盾でもあったことから、王室への不敬罪に対する情報管理規制も強化されていた。今後も政治的な対立に伴う極めて不安定な情勢が続くものと考えられる。政情不安が続けば、観光への影響や消費活動の減速は避けられない。経済が低迷すれば、タクシン派とそれに反対する勢力、都市と地方との格差による対立も再燃し、政情不安をさらに長期化させる。タイの本質的な問題の解決にはまだ時間がかかるだろう。

外資による構造転換~強まる中国の影響力

タイではこの半世紀、クーデターが何度も繰り返されているが、経済政策の方向性に大きな変わりはない。堅固な官僚制の下、次期政権も外資企業を積極的に誘致する今の経済政策を継続するだろう。タイが産業構造を転換し、高所得国を目指すためには、外国からの投資や支援が不可欠である。そして、貿易こそ2013年度以降、中国が最大のパートナーとなったものの、タイへの製造拠点進出を主とする直接投資やODA供与額でトップの日本がタイの産業構造転換の鍵を握っている。実際に、タイの産業クラスターは、日本企業が進出している立地を考慮して設計されており、また、地域統括拠点の申請約100件の半数は日本企業である。
一方で、軍事政権に対して批判的な米国やEUとの投資や貿易は減少傾向にあり、相対的に中国の影響力が拡大するであろう。実際にバンコクからラオス経由で中国の雲南省へ続く鉄道計画等中国との連結インフラ協力に見られるように、周辺国同様「チャイナマネー」の存在が色濃くなっている。特に中国の電子商取引最大手アリババがタイの農家や中小企業にインターネット通販による農産物の輸出支援や電子決済等の金融サービスといった地方経済底上げにつながる事業プラットフォームの提供を表明したのはタイにとっては望外の提案であろう。タイの経済政策の成功が外資に依存するものである以上、中国や日本諸外国の経済情勢に左右されるリスクを負うことになり、かつ格差と政情不安という国内の本質的な問題を抱え、高所得国入りの目標達成の道のりは容易ではない。


  1. タイの産業集積地で事業展開している日本企業が、その生産工程の中から労働集約的な部分をカンボジアやラオス、ミャンマーのタイ国境付近にある経済特区(SEZ)に移転するビジネスモデル。
  2. 1タイバーツ=約3.06円(2016年11月15日)
  3. 2013年時点の定義では、1人当たりGNI(国民総所得)が12,746ドル以上の国・地域。
  4. 例えば、ワーカークラスの月額賃金はカンボジア(プノンペン)は162ドル、ミャンマー(ヤンゴン)は127ドルで、タイ(バンコク)の344ドルを大きく下回る。(出所:ジェトロ投資コスト比較データ)
  5. 世界銀行が2007年に発表した「東アジアのルネッサンス」の中で提示した、労働集約的産業・天然資源集約的産業で成長してきた中所得国が、技術革新や産業構造の高度化、人材育成などへの努力を怠れば、高所得国への移行が困難になるという概念。
  6. 1978年にプミポン国王がシリントーン王女にも王位継承権を与え、王位継承順位はワチラロンコン皇太子に次ぐ第2位。

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