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株式会社三井物産戦略研究所

後発薬大国インドの特殊知財事情

2014年4月11日


三井物産戦略研究所
知財戦略室
宮城康史


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近年、インドが世界の後発薬(ジェネリック医薬品)市場で急速に存在感を増してきており、世界の後発薬の約5分の1が同国で生産されているといわれている。本稿では、このような後発薬産業の急成長の背景にあるインドの特異な知財事情と同市場における先進国の医薬品メーカーの近年の動向と併せて説明する。

インド特有の特許制度

戦後のインドは、輸入代替産業の育成を目指し、製薬分野において社会主義的色彩の濃い産業政策をとってきた。その代表的なものが、医薬品に関する物質特許を認めないという「1970年特許法」である。医薬品は製法のみを保護の対象としたため、インドの医薬品メーカーは、独自の製法を開発して製法特許を回避しさえすれば、先進国の医薬品メーカーが多額の費用をかけて開発した医薬品をインド国内で合法的に製造販売することが可能な状況にあった。インド政府が物質特許を導入しなかった背景には、先進国の高額な医薬品の特許の成立を妨げることにより、インド国民に手頃な価格で医薬品へのアクセスを保証するという公衆衛生上の戦略があったが、結果として、模倣を容易にすることにより、外国企業の影響力を抑えてインドの製薬産業の飛躍的な成長に貢献することとなった。
1995年の世界貿易機関(WTO)の発足に伴い、知的所有権の貿易関連の側面に関する協定(TRIPs協定)の規定を遵守することを余儀なくされたインド政府は、その履行期限を迎えた2005年の特許法改正で物質特許制度を導入したものの、その一方で、「既知の物質について、何らかの新規な形態の単なる発見であって、当該物質の既知の効能の増大にならないものは、発明に該当しない」という規定を設け、特許法の保護対象を著しく限定している。
通常、多くの医薬品メーカーは、既知の化合物の誘導体(エステル等)を合成したり、結晶型や剤型を工夫したりすることにより諸物性を改良して新薬を開発するが、インドに関しては、上記の規定により、これらの医薬品について特許を取得することができない場合が多く、先進国の医薬品メーカーの医薬品保護には大きな障害となっている。
この規定に関連する注目を浴びた近年の事例としては、スイス・ノバルティス社の抗癌剤Glivecに関する特許出願がある。同社が開発したメシル酸イマチニブを主成分とするGlivecは、米国、ロシア、中国を含むおよそ40カ国で特許が認められているが、当時インドでは物質特許が認められていなかったため、インドの特許法改正後、同社は結晶構造を改良したものを特許出願した。しかし2006年、インド特許庁は既知の化合物の新規な形態の発見にすぎないとして拒絶した。同社はGlivecが既知の化合物と比較して優れた溶解性や流動性、吸湿性等があるとして争ったが、2013年4月、インド最高裁は、医薬品の「既知の効能」とは「治療上の効能」と狭く厳格に判断されるべきで、治療効果が増大しなければ新たな発明には当たらないとして出願を拒絶する判決を下している。このニュースは、知財関係者の間で大きな話題となった。
この出願拒絶を受けて、シプラ社、ランバクシー・ラボラトリーズ社など多数のインドの後発薬メーカーが、ノバルティス社の10分の1程度の価格でGlivecのジェネリック版の販売をインドで開始しており、本事例はインドの知財事情の特異性を象徴するものとなった。

頻発する強制実施権付与請求

インド市場におけるもう一つの脅威として、後発薬メーカーによる強制実施権付与の請求がある。強制実施権とは、公衆衛生上の非常事態時や、特許権は取ったものの実際に実施されていない場合などに、国家が特許発明の実施権を第三者に強制的に付与する権利であり、TRIPs協定により、インドを含むWTOの全加盟国に対して認められている。日本をはじめとする先進国では、近年強制実施権が発動された事例はないが、インド特許法は、特許発明がインドの領域内で実施されていない場合に加えて、特許製品の価格が高く、公衆に十分に利用可能となっていない場合にも強制実施権付与を認めており、近年、これを根拠とするインドの後発薬メーカーからの付与の請求が相次いでいる。
2011年5月には、ドイツ・バイエル社が、同社の抗癌剤Nexavarのジェネリック版を販売していたインドのナトコ社に対して、特許権侵害訴訟を起こした。同年7月、ナトコ社は対抗措置としてバイエル社の同抗癌剤の価格が高すぎることを理由に強制実施権の付与を求め、2013年3月、インドの知的財産審判部が強制実施権を付与する決定をしている。ナトコ社がライセンス料として支払う金額はナトコ社の販売価格の7%と定められたが、ナトコ社はバイエル社の約30分の1の低価格で販売していたため、対バイエル社薬価比でのライセンス料は約0.2%にすぎなかった。

先進国の医薬品メーカーの近年の動き

このように、インドでは、他国で特許権が成立している状況下でも、後発薬の製造販売が合法になる場合が多く、多数のメーカーが参入し、インド国内や、インドと同様に法的保護が薄い他の新興国向けに、安価な後発薬を大量に輸出し成長してきた。その結果、インドでは低コストで医薬品を合成する技術力が磨かれ、先進国の企業からの原薬製造のアウトソーシング先としても活用されており、先進国への輸出の増加にもつながっている。
上記のような医薬品を安価に製造する技術と、インドの医薬品市場の成長性に着目し、近年、先進国のメーカーがインド国内のメーカーを吸収合併したり、大規模な業務提携を行い、後発医薬品事業の新規参入・強化をしたりする動きが目立っている。例えば、2008年に、第一三共がインドの後発薬大手のランバクシー・ラボラトリーズ社を約48億ドルで買収し、株式の約64%を取得したことは日本でも大きく報じられた1。このほかにも、2012年に、ドイツ製薬大手のメルク社がインドの後発薬大手ドクター・レディーズ・ラボラトリーズ(DRL)社とバイオ医薬品の共同開発に関する業務提携を行っている。また、米国の後発薬大手のマイラン社も、2009年、インドの大手バイオテクノロジー企業のバイオコン社とバイオ医薬品の共同開発に関する業務提携を行っている。マイラン社は、2013年、インドの注射薬メーカー、アギラ社の買収も行っている。
こうした動きには、近年注目を集めているバイオ医薬品の特許期間の満了を見越したものが多い。バイオ医薬品は、抗体、ホルモンなどの生化学医薬品であり、遺伝子組み換えや細胞培養等の高度な技術を駆使して製造される複雑な分子構造の高分子化合物であるため、化学合成で製造される従来の低分子化合物医薬品とは大きく異なり、全く同一構造の生化学物質を異なる方法で製造することは極めて難しい。そのため、バイオ医薬品の後発薬(バイオ・ジェネリック医薬品)は「バイオ・シミラー」と称されており、新薬に準じるレベルの試験データの提出も求められる。従来の低分子化合物医薬品の分野では、2010年前後に、大型医薬品が相次いで特許権満了を迎えたが、バイオ医薬品は遅れて登場してきたため、特許権の満了が2015年以降に控えているものが多く、今後、本格的にバイオ・シミラーが市場に登場してくることが期待されている。
インドの製薬大手は、バイオ技術についても着実に力を蓄えつつある。特に、バイオコン社とその提携先の米マイラン社は、ドイツの製薬大手ロッシュ社の乳がん治療薬Herceptinのバイオ・シミラーの世界初の認可をインドで取得し、2014年2月にインドでの製造販売を開始している。また、DRL社は、既にインドで販売開始しているロッシュ社のリンパ種治療薬rituximabのバイオ・シミラーの欧州認可取得に向けた臨床試験をドイツ・メルク社と連携して行う計画を発表している。インドの医薬品メーカーの安価な製造技術を利用して新興国市場で優位な地位を築きたい先進国の医薬品メーカーと、生化学分野でさらなる技術やノウハウを獲得したいインドの医薬品メーカーの利害が一致した結果といえるだろう。

今後について

今後のけん引役として期待されている新興国の医薬品市場では(図表参照)、引き続き安価な医薬品に対する需要は高まると予測されており、IMSインスティテュートは新興国における医薬品市場の成長の約80%を後発薬が占めると予測している。
急速な発展を遂げつつあるインドの製薬業界だが、インド企業の医薬品の品質が先進国の厳しい規制を満たさない事例も起きている。前述の、第一三共が子会社化したランバクシー・ラボラトリーズ社の複数のインド工場が、米国FDA(食品医薬品局)から相次いで品質管理体制の不備を指摘され、対米輸出禁止を受けた。その結果、買収直後に同社株価が7割近く下落、第一三共は2009年3月期の決算で巨額減損を計上せざるを得なくなった。同工場の品質管理についてはデータ改ざん問題などもあったようで、品質管理体制の再構築に向けて真剣に取り組まざるを得ない状況にあるという。
IT産業ではアウトソーシング先として確固たる地位を築いたインドだが、今後、製薬産業がさらなる成長を遂げられるかどうか、同国の知財政策も含め、引き続き注意深く観察して行く必要があるだろう。

  1. 2014年4月、第一三共は、ランバクシー・ラボラトリーズをインドの同業、サン・ファーマシューティカル・インダストリーズに吸収合併し、第一三共がサン・ファーマ社の株式の約9%を取得することで合意したと発表している。

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