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株式会社三井物産戦略研究所

健康増進政策とスポーツ産業

2015年2月9日


三井物産戦略研究所
産業調査第二室
酒井三千代


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高齢化の進展や高度な技術の導入に伴って先進国の多くで医療費が拡大している。OECDによると、米国の2012年の医療費はGDP比16.9%で1990年から5.0%ポイント上昇しており、日本でも同10.3%と1990年から4.5%ポイント上昇している。両国をはじめとする多くの国で、医療費の拡大は社会保障の財政を圧迫するとともに、家計の負担も増大させ消費活動の抑制要因となっており、医療費の抑制は重要な課題と位置付けられている。医療費を抑制する上では、市場メカニズムの導入やITの活用による医療サービスの効率化、健診の促進による疾病の早期発見・早期治療と並んで、疾病予防・健康増進が重視されている。その具体策の一つとして注目されているのがスポーツ活動の振興である。医療サービスの効率化が公的な制度の改革を軸とするのに対して、スポーツの振興は関連する企業や消費者の活動を促していくことが中心になる。本稿では、医療費抑制と健康増進の動きがスポーツ産業に与える影響を概観する。

運動不足がもたらす医療費の拡大

WHOは身体活動・運動不足を、高血圧、喫煙、高血糖に次いで、全世界の死亡者数に対するリスクファクターの第4位として位置付けており、乳がん・結腸がんの約21~25%、糖尿病の27%、虚血性心疾患の30%が身体活動不足に起因すると推測している。またその対策として、2010年に公表した「健康のための身体活動に関する国際勧告(Global Recommendations on Physical Activity for Health)」で、身体活動の推奨レベルを提示している。
身体活動不足により生じる医療費についての研究・分析も見られる。米国では、CDC(疾病管理予防センター)が、「Nutrition and Physical Activity at a Glance 2011」において、身体活動不足による米国の医療費は毎年推計750億ドルに上るとしている。英国では、公的機関であるスポーツイングランドが、イングランド保健省傘下にあるPCT(プライマリーケアトラスト)が管理する医療費のうち、身体活動不足に起因する部分は約1%に相当する9億ポンド以上であったとの調査結果を公表している。この調査を委託された調査グループの関係機関であるBHF National Centre for Physical Activity and Health(英国心臓協会により設立された身体運動と健康のためのセンター)は、「Economic costs of physical inactivity」において先進国での身体活動不足による医療費は、直接的な医療費の1.5~3.0%程度とした研究結果を公表しているが、これを実額にすると、約1,150億ドル1と想定できる。
日本でも、スポーツ活動の促進による医療費削減効果について、さまざまな研究・分析が行われているが、文科省が2014年8月に公表した「スポーツ政策調査研究(スポーツの経済効果に関する調査研究)」報告書では、自治体、企業、大学などで実施した調査の結果から、運動不足によって過剰医療費が生じていることや、スポーツ活動の促進が、確実に医療費削減につながっていることが示された。具体例の一つとして挙げられている三重県いなべ市の事例では、運動体験プログラムを実施した結果、年間で全体の約2.8%2の医療費削減効果が見られたとされている。

スポーツ活動促進への政策的な動き

以上のような調査研究の結果を踏まえて、各国で身体活動に関するガイドラインが策定されるなど、さまざまな施策が打ち出されている。米国では、医療保険制度改革の一環として、予防(Prevention)と健康増進(Wellness)が掲げられ、企業によるウェルネス・プログラム(Workplace Wellness)の導入促進や、全米の小中学生を対象にした運動促進キャンペーン「Let's Move!」を展開するなど、定期的に運動を行うことを職場や学校、家庭で促す施策が強化されている。
ドイツでは、2014年12月に「健康増進・予防法(Präventionsgesetz)」を閣議決定し、疾病金庫3の予防・健康増進への給付を従来の倍以上の年間約5億ユーロとするなどの方針が示された。これにより、学校、企業、老人ホームなどへ予防・健康増進に関する支援が行われることになる。同国では健康保険が適用できる運動療法を提供する民間フィットネスクラブなどが増加傾向にあるが、そうした運動療法の積極的な活用に加えて、日常生活の場での健康増進への取り組みが促進されることで、民間のスポーツ関連事業者の活用も広がるものと考えられる。
日本では、2013年6月に閣議決定された日本再興戦略において、「効果的な予防サービスや健康管理の充実により、健やかに生活し、老いることができる社会」の実現を目指し、健康寿命延伸産業を4兆円から10兆円規模へ拡大させる目標が掲げられ、2014年6月の日本再興戦略・改訂版では、さらに公的保険外サービスの活性化に関する具体的な政策が盛り込まれた。新たに創出が期待される市場は、簡易検診やカウンセリング、配食サービスなど多様であるが、スポーツ産業においては、規制対象に関するグレーゾーンの解消などによって民間フィットネスクラブが行うリハビリや運動指導サービスなどの分野で新たな市場創出を促進していく方針が打ち出されている。また、東京オリンピック・パラリンピック開催に向けてスポーツ行政一元化のために設立されることが決まったスポーツ庁にも、予防医学の知見に基づくスポーツの普及を目指す「スポーツ健康推進課」が設置される予定になっており、厚労省が所掌する健康増進政策との連携が図られるものと考えられる。
急速に所得水準、生活水準が向上し高齢化が進行している中国においても、健康寿命の延伸は一つの課題となっている。2014年10月に国務院はスポーツ産業の育成に向けた方針を打ち出し、2025年までにスポーツ施設や製品、サービスを充実させてスポーツ産業の体系を構築し、5兆元(約94兆円)規模の産業に拡大するとした目標を掲げている。

「健康」に重心を移すスポーツ産業

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スポーツに関しては、病気を治すよりも防ぐ方が費用がかからず合理的であること、それがレジャー・娯楽の性格もあるスポーツによって実現できることへの認識が高まったことで、消費者の参加意欲が高まってきているが、前述のような政策的な動きも、関連産業にとっての強力な追い風となりつつある。先進国全体でほぼ5千億ドル程度4の市場規模を有すると想定されるスポーツ関連産業は、消費者に場を提供する施設・サービス系企業と、用具・用品を提供するメーカーとに大別されるが、そのいずれもが、「レジャー・娯楽」から「健康」へと重心を移動させつつある。
施設・サービス系では、娯楽・レジャーの性格が濃いゴルフ場、ボウリング場などの市場が縮小傾向にあるのに対して、健康増進の色彩が濃いフィットネスクラブの市場は拡大傾向にある(図表1)。スポーツ施設は各国で地場企業が運営しており、市場は細分化されているが、小規模施設のフランチャイズチェーンを展開したり、女性専用など提供サービスの内容を絞ることなどで低価格で参加しやすいサービスを実現したCurves InternationalやAnytime Fitnessのような企業は、グローバルに事業展開を行っている(参考:図表2)。また日本では、フィットネス施設運営事業者が、リハビリや高齢者向け運動指導プログラムの開発・サービスの提供などの分野で業容を拡大する機運が高まっている。
他方、ナイキやアディダスなどのメジャー企業がグローバル展開しているスポーツ用品メーカーの領域でも、健康志向の影響が強まってきている。ゴルフ用品など、スポーツ用品市場が伸び悩むなかで、健康志向を受けたランニングやウォーキング人口の増加によりシューズなどの関連商品の売り上げが伸びている。また、健康増進のニーズを受けてウェアラブル端末と携帯端末用アプリを連動する形で、個人の運動・健康を管理したり、友人間での情報共有を通したコミュニティの造成によってモチベーションを維持・喚起するサービスの提供など、スポーツ用品・アパレル大手がIT企業との連携などで、消費者向けの事業を展開する事例が増加している。
このように、スポーツ関連企業が軸足を「健康」に移していく一方で、健康や医療の領域で活動してきた事業者や異業種の事業者が、スポーツ関連市場に参入してくる動きもある。日本では、医療法人グループやエステサロンがフィットネス関連施設を運営するなど、医療機関とスポーツ関連企業の連携や、周辺産業および異業種の参入が進む傾向にある。また、2014年度に一般財団法人日本規格協会が経産省委託事業において、疾病予防に効果的なアクティブレジャーを提供する事業者のサービス提供内容の品質を評価する第三者認証スキームを構築しており、健康運動サービスの品質を「見える化」する取り組みも始まっている。
政策的な後押しを受けて、予防・健康増進分野で新たに産業を創出しようとする取り組みが今後も先進国を中心に加速していくものと考えられ、スポーツ関連産業の活性化が期待される。


  1. OECDが公表している各国の医療費対GDP比を元に2012年の34カ国の医療費を算出すると、約5.7兆ドルとなり、身体活動不足に起因するのが仮にこの約2%とすると、約1,150億ドルとなる。
  2. 三重県いなべ市で、ストレッチやウォーキング、ボール運動などの運動体験プログラムを実施した結果、2008年度にプログラム参加者(588人)と非参加者(4,956人)の間で、1人当たり年間78,246円の医療費の差額が確認された。これは、分析対象人数5,544人全員がプログラムに参加しなかった場合の国民医療費(約16億円)の約2.8%(約4.6千万円)に相当する額であった。
  3. Krankenkasse:保険者で、国から独立した公法上の法人。
  4. スポーツ関連の市場規模は、米国ではGDPの1%に相当する約1,500億ドル、日本ではGDPの1%弱に相当する約3.8兆円であり、他の先進国でも同程度であると仮定すると、先進国全体では5千億ドル程度と想定される。

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