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あゆみ

旧三井物産を支えた企業家たち(3)馬越恭平

三井家の家祖である三井高利が開いた越後屋に始まる事業は、優秀な人材の登用と育成により拡大。特に明治維新後、三井が財閥として近代的な会社組織に移行していく中で、多くの名企業家を輩出してきた。その中から今回は、馬越恭平を紹介する。

終生、経営の第一線に立った「東洋のビール王」

馬越恭平馬越恭平

旧三井物産(注)初代社長の益田孝は、1876年の創立時に社員の一人として馬越恭平を迎え入れた。馬越恭平は、入社1年で横浜支店長を命ぜられ、生糸の輸出を手掛け、日本人による生糸輸出の先鞭をつけた。その手腕が認められて1891年に専務に就任した。

そのころ、旧三井物産も株主の1社であった日本麦酒が経営難にあり、その立て直し役として指名されたのが馬越恭平だった。1892年、経営の表舞台に立った馬越は、徹底した合理化を図るなどして解散一歩手前だった日本麦酒を株主配当を行えるまでに再建した。

また、1899年には日本初のビヤホールを開業するなど、さまざまな販売戦略を推進、さらに、1901年には専用の貨物積載場として、ブランド名「ヱビス」を冠した駅を開設し日本全国にビールを輸送できる体制を整えた。

横浜支店での生糸の出荷作業馬越恭平は旧三井物産横浜支店長として、生糸の輸出に尽力した。横浜支店での生糸の出荷作業

旧三井物産を退職後、1906年に札幌麦酒、大阪麦酒、日本麦酒の3社が合併して誕生した大日本麦酒(現・サッポロビール)の社長に就任した。大日本麦酒はその後1949年に分割されるまで日本国内シェア70%を誇った。

後に「東洋のビール王」と呼ばれるようになった馬越だが、89歳で亡くなるまで現役社長として経営の第一線で指揮を執った 。晩年、次のようなことを言っていたと伝えられている。

「人は歳などを数えるようではいけない。歳と働きとは別のものだ。83歳になったら、逆に数えて3×8が24歳で、会社のために若い気で働くつもりだ」

(注) 法的には旧三井物産と現在の三井物産には継続性はなく、全く別個の企業体である。